萩大名

▲大名「罷出たるは。隠(かくれ)も無い大名。此(この)うち御前(ごぜん)に詰めてあれば。心が何とやら屈して御ざる。太郎冠者(くわじや)を喚(よ)び出し。何方(いづかた)へぞ。遊山に参らうと存ずる。在るかやい。
▲くわじや「御前に。
▲大名「汝を喚び出すは別義では無い。何方へぞ遊山に行かうと思ふが何とあらう。
▲くわじや「は。内々(ないない)は御意無うても。申上(まをしあげ)うと存ずる所に。一段で御ざりませう。
▲大名「好からうな。
▲くわじや「は。
▲大名「何と。西山東山は何時(いつも)の事。様子の違ふた所へ行きたいが。何処もとが好からうな。
▲くわじや「誠に御意の通り西山東山は何時(いつも)の事で御ざる。されば。何処もとが好う御ざりませうぞ。はア。思ひ付けて御ざる。是よりも下京辺に。心やさかたな御方が御ざる。殊の外の庭好きで御座る。是への御遊山が好う御ざりませう。
▲大名「おう。是が一段好かろ。それへ向けて行かうぞ。
▲くわじや「は。乍去(さりながら)是へ御ざればお歌をなされねばなりませぬ。
▲大名「それは如何(いか)やうな事を読むぞ{*1}。
▲くわじや「三十一文字の言の葉を。伝へた事で御ざる。
▲大名「あゝこりや。なるまいに。
▲くわじや「は。申上(まをしあげ)まする。
▲大名「何とした。
▲くわじや「某(それがし)上京辺を通つて御ざれば。若い衆の見物に御ざらうとあつて。萩の花に付(つい)て。句づくろひをなされたを。聞いて参りまして御ざる。御前(おまへ)にをすへ(教へ)ませう。
▲大名「やい。くわじや。其庭にも。萩の花が有らうかな。
▲くわじや「殊に亭主好きまするのが。萩で御ざりまする。
▲大名「ふん。其義ならば。急いでをすへ(教へ)い。
▲くわじや「畏つて御ざる。七重八重。九重とこそ。思ひしに。とよ咲き出づる。萩の花かな。と申(まをす)事で御ざる。
▲大名「ふん。してそればかりか。
▲くわじや「はア。
▲大名「いや。是程の事ならば読まう程に。急いで来い。
▲くわじや「畏つて御ざる。
▲大名「来い来い。やい。冠者。して。今の歌の云ひ出しは何であつたぞ。
▲くわじや「忘れさつしやれて御ざるか。七重八重で御ざりまする。
▲大名「おうそれぢや。して其後は。
▲くわじや「申(まをし)殿様。是ではなりますまい。
▲大名「おう。なるまいわい。急いで戻れ。
▲くわじや「申(まをし)殿様。
▲大名「何ぢや。
▲くわじや「乍去(さりながら)。物によそへたら。覚えさつしやれませうか。
▲大名「よそへ物によつて。覚えうず。
▲くわじや「即(すなはち)扇の骨によそへませう。七重八重と申(まをす)時に。七本八本広げませう。九重と申時に。九本広げませう。とよ咲きと申時に。皆広げませう。
▲大名「おう。これは好いよそへ物じやわい。やい。して又其後が有るぞよ。
▲くわじや「はア。これは猶よそへ物が御ざる。
▲大名「それは何によそへるぞ。
▲くわじや「即(すなはち)身共をば。臑脛(すねはぎ)ばかり伸び居つて。厚く折檻なされまする。其脛をば。思ひ出さつしやれませう。
▲大名「おう。是が一段ぢや。来い来い。
▲くわじや「疾(とつ)と御ざりました。即(すなはち)これで御ざりまする。それに待(また)しやれませ。
▲大名「やい。くわじや。亭主に。大名ぢや程に是へ迎へに出よといへ。
▲くわじや「畏つて御ざる。御亭。内に御ざるか。
▲ていしゆ「いゑ。くわじや殿。何として御ざつたぞ。
▲くわじや「其事で御ざる。たのうだ人が此方(こなた)の庭を聞き及うで。見物にで御ざる程に。表へ迎ひに出さつしやれい。
▲ていしゆ「心得まして御ざる。はつ。これは又見苦しい所へ。御腰掛けられうと御ざりまする。辱(かたじけ)無うこそ御ざりますれ。
▲大名「やい。くわじや。ありや亭主か。
▲くわじや「はア。
▲大名「御亭。無(ぶ)案内におぢやる。斯(か)う通りまする。
▲ていしゆ「はつ。
▲大名「やい。太郎冠者。床机床机。
▲くわじや「はつ。
▲大名「やい。亭主に。是へ出られいといへ。
▲くわじや「はつ。御亭是へ出さつしやれい。
▲ていしゆ「畏つて御ざる。
▲大名「御亭々々。聞き及うだよりも。甚(いか)う庭が見事でおぢやる。
▲ていしゆ「はつ。此中(このぢゆう)は手入も致さぬによつて。甚(いか)う汚(むさう)御ざりまする。
▲大名「否(いや)々。さうもおぢやらぬいの。なう御亭。彼(あ)の向ふな松は女(め)松でおぢやるか。男(を)松でおぢやるか。
▲ていしゆ「いや。彼(あ)れは男松で御ざりまする。
▲大名「ふん。甚(いか)う見事おぢやる{*2}。やい。冠者。見事なゝ。
▲くわじや「はつ{*3}。
▲大名「彼(あ)の左の方ヘすつと出た枝を見たか。
▲くわじや「中々。見まして御ざる。
▲大名「鋸おくせい。引切(ひつきつ)てしんに立てうに。
▲くわじや「はゝ。
▲大名「はゝ。御亭。不(ふ)案内におぢやる。
▲ていしゆ「これこれ。
▲くわじや「何でか御ざるぞ{*4}。
▲ていしゆ「いや。彼(あ)の殿様に仰しやれませうには。いづれもの。御腰掛られては。彼(あ)の萩の花に付けて。短冊を掛けさつしやる。殿様にも遊ばしませいと仰しやれい。
▲くわじや「心得まして御ざる。申(まをし)まする。
▲大名「何とした。
▲くわじや「亭主申(まをし)まするのには。いづれもが短尺をなされまする程に。花につけて。お歌をば詠まつしやれいと申(まをし)まする。
▲大名「亭主に是へ出よといへ。
▲ぐわじや「はつ。
▲大名「御亭。只今は歌を詠(よめ)と仰(おつし)やる。久しう詠(よま)ぬが。何とおぢやろ。一つ詠まうか。
▲ていしゆ「遊ばしませう。
▲大名「斯(か)うもおりやろか。七重八重九重とこそ思ひしに。とへ咲き出づる。萩の花かな。
▲くわじや「あゝ是は。いかう出来(でけ)さつしやれて御座りまする。
▲大名「亭主。身は歌よみで居りやるいの。
▲ていしゆ「あゝ。強(いか)う出来さつしやれて御ざる。
▲大名「やい。冠者。亭主が出来たてゝ{*5}。甚(いか)う喜ぶわ。汝は何方(いづかた)へぞ行け。暇を出す程に緩(ゆる)りと行(い)て寛(くつ)ろいで来い。
▲くわじや「畏つて御座りまする。
▲ていしゆ「申(まをし)殿様。
▲大名「御亭。何でおぢやるぞ。
▲ていしゆ「只今短尺に書きまする。最(も)一度吟じさつしやれませう。
▲大名「おう。心得ておぢやる。七重八重。九重とこそ思ひしに。とへ咲き出づる。出づる。いや。冠者奴(め)は。どこもとに居るでぢやまでい。
▲ていしゆ「申(まをし)殿様。御歌に冠者はいりますまい。急いで後を詠まつしやれませい。
▲大名「して。短かうおぢやるか。
▲ていしゆ「中々字が足りませぬ。
▲大名「したらば。出づるを幾個(いくつ)も書いて置きやれ。
▲ていしゆ「いや。それではなりませぬ。
▲大名「はて。冠者奴が。早う戻り居らいで。
▲ていしゆ「申(まをし)殿様。急いで詠まつしやれませい。
▲大名「ここな奴は。諸武士(しよさむらい)に手を掛(かけ)居つて。憎い奴の。
▲ていしゆ「ても{*6}。字が足りませぬ。
▲大名「あゝ。思ひ付けたわ。
▲ていしゆ{*7}「何と。
▲大名「ものと。
▲ていしゆ「何と。
▲大名「太郎冠者が向脛(むかふずね)に某が鼻の先。
▲ていしゆ「何でも無い事。疾(とつと)と言はしませ。

底本:『狂言全集 上巻 狂言記』「巻の一 七 萩大名


校訂者注
 1:底本は「如何(いが)やうな事を読むぞ」。
 2:底本のまま。
 3:底本に句点はない。
 4~6:底本のまま。
 7:底本は「▲亭主」。