酢薑(すはじかみ)

▲はじかみ売「罷出たるは。山城の国。薑売(はじかみうり)で御ざる。又今日も商売に。参らうと存ずる。夫(それ)商人(しやうにん)とは。足をばかり。声をばかりに商(あきな)はねばならぬと申(まをす)。先(まづ)是から喚(よ)ばゝりませう。はじかみこん。
▲す売「罷出たるは。和泉の国の酢売で御ざる。又今日も商(あきなひ)に参らうと存ずる。やれさて。一段の日和に出合せたる事かな。先づ売(うり)ませう。すこん。
▲はじかみ「はじかみこん。
▲す「すこん。
▲はじかみ「やい。其所(そこ)な者。耳の辺(はた)へ寄りて。何をつこんつこんと云ふぞ。
▲す「やい。其所な者。お主(ぬし)は又。何をはじかまろはじかまろと云ふぞ。
▲はじかみ「や。そちが何事を云ふたとまゝよ。此藁苞(わらづと)などには。甚(いか)う系図のある物ぢや。
▲す「何と云ふぞ。其藁苞(わらづと)に系図が有ると云ふか。
▲はじかみ「中々有る。
▲す「少(ちつ)と聞きたうおぢやるの。
▲はじかみ「いや。知らずは云ふて聞かせう。藁苞(わらづと)に黄金(こがね)と云ふ事有る。其上薑(はじかみ)などには。甚(いか)う系図の多い物ぢやが。其方(そち)が其酢などには系図が有(ある)まい。
▲す「いや。酢にこそ系図がおぢやれ。
▲はじかみ「何ぢや。酢にも系図が有(ある)と云ふか。
▲す「中々おぢやる。
▲はじかみ「や。少(ちつ)と聞きたうおぢやるの。
▲す「お。中々。読(よん)できかしやうが。して。位に負けたらば。其方(そのはう)は売子(うりこ)になるか。
▲はじかみ「をんで無い事。どちらなりとも売子にならうず。
▲す「然(さ)らば。是へ寄つて聞かせませ。昔推古天皇の御時に。一人(にん)の酢売。禁中を売り廻る。其時わうゐん。酢売々々とわうゐん召されしが。すの門をするりと通り。簀子椽(すのこえん)に直(すく)と立つておぢやる。其時。透張(すきはり)障子をするりと明け。するすると御出あつて。好(す)きの御酒を下された。一つたべ。二つたべ。三つ目に御詠歌を下された。お主(ぬし)是を聞かうずるよ。
▲はじかみ「急いで聞かしやれ。
▲す「住吉の。隈(すみ)に雀が。巣を懸けて。さぞや雀は。住(すみ)よかるらん。と下された。是に増したる系図は有るまい。売子にならせませ。
▲はじかみ「先づ某(それがし)もお聞きやれ。昔からく天皇の御時。薑売(はじかみうり)と召されしが。から門のからりと通り。から椽(えん)にかしこまる。其時わうゐん。唐紙障子をからりと明けて。からからと御覧有り。辛き御酒を下されたり。一つたべ。二つたべ。三つ目にお肴とて。御歌を一首下された。是へ寄つて聞かせませ。からし。から物。から木でたいて。からいりにせんと。下された。是に増したる系図は有るまい。お主売子にならせませ。
▲す「いやはや。是も余程(よつぽど)の系図でおぢやる。乍去(さりながら)。すゐこ天皇も。からく天皇も。位は同じ事。今からは。相商(あひあきなひ)に参らうず。
▲はじかみ「お。誠に。仰る通り。酢のいる所には薑(はじかみ)もいらうず。さゝ。先づ売らせませ。何方(どれへ)向けて参らうず{*1}。
▲す「真直(まつすぐ)に。行かせませ。
▲はじかみ「やア。某(それがし)は烏丸通りへ参らうず。
▲す「先づ売らしませ。
▲はじかみ「心得ておぢやる。はじかみこん。
▲す「すこん。
▲はじかみ「なうなう。彼(あ)れを見させませ。甚(いか)い紙見世でおぢやらぬか。彼(あ)れは皆唐紙(からかみ)でおりやる程にの。
▲す「なう。側(そば)に積んだは杉原でおりやる。
▲はじかみ「おぢやらしませ。此見世を見さしませ。
▲す「はて好い生物(いけもの)。
▲はじかみ「彼(あ)れを見さしませ。唐(から)のかしらがおぢやるわいの。
▲す「立物(たてもの)は。水牛でおぢやる。
▲はじかみ「なうなう。此藪を見さしませ。はれ。甚(いか)い大竹でおぢやるの。なう。皆唐竹でおぢやる。
▲す「あれをすつかと切りて{*2}。酢筒にしたらばおぢやろ。
▲はじかみ「は。余程(よつぽど)におしやらいで。
▲す「いや。思ふ事が。色外(ほか)に表はるゝとやらで。酢筒が欲しいと思ふ事ぢやによつて。申(まをし)た事でおぢやる。
▲はじかみ「なう。余程(よつぽど)来ておぢやる。
▲す「此処は何処でおぢやる。
▲はじかみ「お番所(ばんじよ)へ着(つい)ておぢやる。彼(あ)の桃を見さしませ。
▲す「はれ。いかい桃でおぢやる。
▲はじかみ「彼(あ)れが皆唐桃でおぢやる。
▲す「なう。是を見さしませ。杏(すもゝ)でおぢやる。
▲はじかみ「なう。程無う五條河原へ着いておぢやる。時の物とて。やさしや。唐薯木(からいもき)が。いかい事おぢやる。
▲す「なう。杉菜も丈比(せくらべ)して居るわ。
▲はじかみ「彼(あ)れ上(かみ)を見さしませ。あれ子供がからかふわ。
▲す「あれは角力(すまひ)でおぢやる。
▲はじかみ「なうなう。あれあれ川上をからげて渡るわ。
▲す「いや彼(あ)れは。裾を濡らすまいが為でおぢやる。
▲はじかみ「なうなう。清水寺(せいすゐじ)には。おちごなりとやら。かしきなりとやらが有るといふが。其方(そなた)は。望(のぞみ)はおぢやらぬか。
▲す「いや身共も参らう。
▲はじかみ「程無う着いておぢやる。
▲す「なう。おちごなりとやらは。すぎたと申すわ。
▲はじかみ「其義でおぢやるならば。某はせんくに。一くで。からからと笑ふて。帰らうと存ずる。
▲す「いや某も。住家(すみか)へ向けてすつこも。

底本:『狂言全集 上巻 狂言記』「巻の一 八 酢薑


校訂者注
 1:底本のまま。
 2:底本は「あけをすつかと切りて」。