福渡(ふくわたり)

▲殿「罷出たるは。御存(ごぞんじ)の者。太郎冠者あるか。
▲くわじや「御前に。
▲との「念無う早かつた。汝喚(よ)び出すは。別義でない。鞍馬へ参らうと思ふが。何とあらうぞ。
▲くわじや「内(ない)々は御意無うても申上(まをしあげ)うと存ずる処に。一段で御ざりませう。
▲との「好からうな。
▲くわじや「はア。
▲との「供に来い。さう(添う)て来い。
▲くわじや「はア。
▲との「やいやい。汝は。いつも代参詣(だいまゐり)に参らすが。道々名所が有らば語れ。
▲くわじや「いや。別に名所は御ざりませぬ。とつと。御ざりました。御前(おまへ)で御ざりまする。
▲との「手水おくせい。
▲くわじや「はア。
▲との「やい。某(それがし)は今宵。お通夜(つうや)を申(まをす)程に。汝は。それに居つて。鶏(とり)が唱(うた)ふたらば。起(おこし)ませい。
▲くわじや「鶏は何鳥で御ざりまするぞ。
▲との「鈍な奴の。鶏(にはとり)が唱ふたら起(おこ)しませい。
▲くわじや「めんご(雌鳥)でも。大事御ざりませぬか。
▲との「やい其処な奴。をんど(雄鳥)が唱ふたら起しませい。
▲くわじや「畏つて御ざりまする。扨も扨も。某が。をんどの唱ふを。知るまいと思ふて{*1}。おかしいことを申さるゝ。ま一度起して。嬲(なぶ)りませう。申(まをし)殿様。
▲との「何ぢやぞ。
▲くわじや「宿坊から。お人が御ざりました。
▲との「何と云ふて御ざつたぞ。
▲くわじや「好うこそ。籠らつしやれまする。お淋しう御ざりませう程に。此提重(さげぢゆう)を。冠者を対手(あひて)になされまして。開かしやれませいとておぢやつて。御ざりました。
▲との「いや其使(つかひ)はいやい。
▲くわじや「いや。左様(さう)申(まをし)て参りたら。好う御ざらうと申す事で御ざる。
▲との「退居(しさりを)ろ。憎い奴の。汝(おのれ)もそれに。臥せり居ろ。
▲くわじや「畏(かしこまつ)て御ざる。ゑゝこれきかうだましぢや物を。少(ちつと)臥せりませう。はア。あら尊や。申(まをし)殿様。最早(もはや)夜も明けますに。下向なされませう{*2}。
▲との「よい時分に起(おこ)した。下向致さうわいな。来い来い。やい。冠者。某は夢のやうに聞いたが。汝は。あら尊やと云ふたが。何であつたぞ。
▲くわじや「いや。私ぢや御ざりますまい。
▲との「汝(おのれ)が声を。開き紛はうか。
▲くわじや「はア。いや。御福(ごふく)を賜(たば)つて御ざる。
▲との「御福は何ぢや。
▲くわじや「福は。ありのみで御ざりまする。
▲との「それに待て。やれさて。某に下されう福をば。太郎冠者に取らさつしやれたは不思議で御ざる。抑(おさへ)て取らうと存ずる。やい。冠者。某も福を賜(たば)つた。
▲くわじや「それは。何とやうに賜(たば)らつしやれて御ざる。
▲との「いや其事。夜のやはんの前後に。八十ばかりの老僧が。香(かう)の衣(ころも)に。香の袈裟。みなすゐしやうの珠数を爪繰り。汝に福を与へる程に、太郎冠者に持(もた)して置く。道にて受(うけ)取れと御意なされた。急いで渡せ。
▲くわじや「はア。それに待(また)しやれませう。やれさて。人の主(しゆう)には。成りたいもので御ざる。某が賜つた福を。抑へて取られまする。思ふさま嬲らずば。渡しますまい。
▲との「やい冠者。何とて遅う渡すぞ。急いで渡せ。
▲くわじや「畏つて御ざる。乍去(さりながら)。御前の御意なさるゝ如く。八十ばかりの老僧の。道にて抑へて取(とら)るゝならば。福渡(ふくわたし)と云ふ事をせずは。渡すなと御意なされて御ざる。
▲との「それは如何(いか)やうな事ぢや。
▲くわじや「いや。斯(か)う申(まをし)まする。
▲との「何と。
▲くわじや{*3}[舞節]「鞍馬の太子多聞天の御福を。主殿(しゆうどの)に。まゐらせたりや。まゐらせた。
と申(まをす)時は。御前(おまへ)の。賜(たば)つたりや。賜(たば)つた。と御意なさるれば。好う御ざりまする。
▲との「急いで渡せ。
▲くわじや[舞節]「はア。
[上]くらまの太子たもん天の。御福を主殿に。まゐらせたりや。まゐらせた。
▲との「賜(たば)つた賜(たば)つた。
▲くわじや「はア。余り忙(せは)し無う御ざりまする。ま少(ちつと)静(しずか)に受取らつしやれませい。
▲との「急いで渡せ。
▲くわじや{*4}「御福を。主殿にまゐらせたりや。まゐらせた。
▲との「たばつたりや。たばつた。
▲くわじや「申(まをし)殿様。余り又。長う御ざる。中(なか)を以て受取らつしやれい。
▲との「急いで渡せ。
▲くわじや「[上]鞍馬の太子多聞天の御福を。主殿にまゐらせたりや。まゐらせた。
▲との「たばつた。
▲くわじや「申(まをし)殿様。
▲との「何ぢやぞ。
▲くわじや「あゝと仰しやれませい。
▲との「あゝ。
▲くわじや「芽出たい事が御ざりまする。奥歯が三枚見えまする。寿命長う御ざりませう。
▲との「それこそ芽出たし。いて休め。ゑゝ。
▲くわじや「はア。

底本:『狂言全集 上巻 狂言記』「巻の二 一 福渡


校訂者注
 1:底本は「知るまいと思ふで」。
 2:底本は「下向なされなされませう」。
 3:底本は「▲くわじや。[舞節]」。
 4:底本、ここは全て傍点がある。