茶壺(ちやつぼ)
▲壺主「ざゝんざ。浜松の音は。さゞんざ。あゝ。甚(いかう)酔うた事かな。ふ~{*1}。めがゆくめがゆく。御目がゆき候。扨も扨も。平常(いつも)は道が一筋あるが。あゝ。幾筋も見ゆる。これでは行かれまい。先づ少(ちつと)。や。ゑいとな。あゝ。寝た。
▲すり「罷出たるは。心も直(すぐ)に無い者で御ざる。左様に御ざれば。此中(このうち)に何と致してやら。仕合せが悪(あ)しう御ざる。今日はこやのゝ市へ参り。何にはよるまい。さわたつて。仕合(しあはせ)を致さうと存ずる。いゑ。こゝな。何者やら。路側(みちばた)に伏せつて居る。いて見て参らうず。扨も扨も。寝て居るこそは道理なれ。はれ。きつう酔うて居る。見れば善さ相(さう)な物を背負うて居るが。あれをば。とうぞ此方(こつち)ヘ。つれましたいと存ずるが。先づ起(おこ)して見ませう。やいやい。街道ぢやが。起きて行かいでな。これは扨。賢い事を為(し)て居る。未(ま)だ片一方は。連尺を放さぬ。某(それがし)も。片一方を掛けて。彼処(あそこ)に伏せりませうず。や。ゑいとな。
▲壺主「あゝ。扨も扨も。久しう寝た事かな。はア。甚(いかう)日も晩じた。先づ参りませう。なうなう。此処な人。連尺が掛かつたわいの。起きさせませ。
▲すり「あゝ。扨。これは。某がぢやわい。
▲壺主「いゑ。某がぢや。
▲すり「何と。
▲壺主「出あへ出あへ。
▲目代「やいやい。是は何事ぢや。先づ某に此を預け。批判の聞いてから渡さう程に。
▲壺主「御前(おまへ)は誰様(どなた)で御ざりまするぞ。
▲目代「いや。所の目代ぢや。
▲壺主「はア。此様子を御ろんじやつて下されい。彼(あ)の者に渡さつしやれて下されな。
▲目代「おう。心得た。先づ。こゝな者も放せ。
▲すり「いや。こりや。私がので御ざりまする。
▲目代「汝がで有らうとまゝよ。先づ某に預け。
▲すり「御前は誰様で御ざるぞ。
▲目代「いや。所の目代ぢや。
すり「はア。存じませなんだ。御礼申(まをし)まする。
▲目代「礼まではいるまい。先づ放せ。
▲すり「畏つて御ざる。
▲目代「やいやい。して汝は。何とて。一人(り)として持つて居る物を。両人しては論ずるぞ。
▲壺主「其御事で御ざりまする。先づ。聞かせられて下されい。某は中国の者で御ざる。頼うだる者は。殊の外の茶好(ちやずき)で御ざる。毎年(ねん)栂の尾へ。茶を詰めに参る。当年も相変らず参りて御ざれば。こやの辺にて大酒を食べ。道とも存ぜず。伏せつて御ざれば。彼(あ)のすり奴(め)が。某が連尺に手を掛け。出あへ出あへと申(まをし)て御ざる。是に紛(まが)ふ処御ざりませぬ。仰(おほせ)付けられて下されい。
▲目代「ふん。汝がさうな。それに待て。やい。其処な奴。彼(あ)の者は。言分(いひぶん)のいふたが。汝(おのれ)は言分は無いか。
▲すり「彼(あ)のすりめは。申しましたか。
▲目代「中々。
▲すり「扨も扨も。すりと申(まをす)者は。何を云はうも存ぜぬ事で御ざる。聞かつしやれて下されい。先づ。某は。中国の者で御ざる。頼うだる者は。茶好で御ざるに依つて。栂の尾へ毎年茶を詰めに参る。当年も相変らず。詰めに参りまして御ざる。路次にて。大御酒(おほごしゆ)に食べゑひ。道とも存ぜず伏せつて御ざれば。彼(あ)のすり奴(め)が。連尺へ手をそつと入(いれ)て。側(そば)に伏せつて居つて。某がぢや程に。やるまい。出あへ出あへと申て御ざる。きつと仰付けられて下されい。
▲目代「扨は汝がさうなわいやい。
▲すり「あゝ。わしがで御ざる。
▲目代「それに待て。やい。其処な者。して最早(もはや)彼(あ)れに付けて。証拠はないか。
▲壺主「別に証拠は御ざりませぬが。茶の銘。某が出処を舞ひませうず。したが彼(あ)の者も。舞ふか。問はつしやれて下されい。
▲目代「やいやい。彼(あ)の者は。曲舞(くせまひ)ぶしにかゝつて云はうといふが。汝も云はうか。
▲すり「彼(あ)のすりが申(まをす)事は。仕様は御ざりますまいが。乍去(さりながら)。有らば申せと仰しやれませい{*2}。
▲目代「おう心得た。やいやい。是へ出て。急いで申せ。
▲壺主「畏つて御ざる。
[次第]我が物ゆえにほねををる我が物ゆえにほねををる心のうちぞおかしき。[イロ]さ候へばかうこそ。さ候へばこそ。扨も我が主(しゆう)殿。中国一の法師にて。日の茶をたてぬ事なし。いや。一族の寄合(よりあひ)に。ほんの茶をたてんとて。五十くわんの。くりを持ち。多(おほく)のあしを費(つかう)て。兵庫の津にも着(つき)たり。兵庫立つて二日に。栂の尾にも着(つき)しかば。峯の坊。谷の坊。ことにめいゑんしけるは。あかいの坊のぼうさきを。十斤ばかり買(かひ)とり。此壺に打(うち)入れ。後にきつと背負うて。国をさいて下れば。こやのゝ宿(しゆく)の遊女が。袖をぢつとひかへて。いや。今様は朗詠。しをりはきを唱(うた)ふて。おさへて酒を強ひたり。酒に酔うて寝たるを。日本一の大(おほ)ふの。古博徒(ふるばくちうち)が来て。我(わが)物と申すを判断なしてたび給へ。
所の撿断(けんだん)殿。
▲目代「おう。好う申(まをし)た。汝も急(いそい)で申せ。
▲すり「畏つて御ざる。(右の曲舞を同(おなじ)やうに舞ふ。)
▲目代「やいやい。彼(あ)の者が舞ふたのも。汝が舞ふたのも。大方似たやうな。今度は。連舞(つれまひ)に舞ひませい。少(すこし)なりとも違ふた方を。曲事(くせごと)に行ふ程に。
▲壺主「畏つて御ざる。
▲すり「彼(あ)のすりめが。
▲壺主「汝(おのれ)こそすりなれ。
▲目代「論ないるまい。急いで舞へ。
▲壺主すり{*3}[上]「我物ゆえにほねををる心のうちぞおかしき。[スル]さ候へばかうこそさ候へばかうこそ。扨も我主(しゆう)殿。中国一の法師にて。日の茶を立てぬ事なし。いや。
▲すり「いや。(又二人)一族の寄合に。ほんの茶を立てんと。五十くわんのくりを持ち。多(おほく)のあしを費(つか)うて。兵庫の津にも着きたり。
▲すり「着きたり。(又二人)兵庫立つて二日に。栂の尾にも着(つき)しかば。峯の坊。谷の坊。ことにめいえんしけるは。あかいの坊のぼうさきを。十斤ばかり買取り。此壺に打入れ。後に着(き)。
▲すり「着。(又二人)此きつと背負うて。国をさいて下れば。こやのゝ宿の遊女が。袖をぢい。
▲すり「ぢい。(又二人)とひかへて。いやア。今様は朗詠。しをりはぎを唱ふて。おさへて酒を強ひたり。酒に酔うて寝たを。日本一の大ふの。あの。
▲すり「あの。(又二人)博徒(ばくちうち)が来て。我物と申を。判断なしてたび給へ。
▲目代「両人の者。つゝと是へ寄れ。聞く。昔よりも。論ずる物は中(なか)で取るといふ。某がにするぞ。
▲壺主「やいやい。しらけな。
▲すり「汝(おのれ)こそしらけ。
▲壺主「やるまいぞやるまいぞ。
底本:『狂言全集 上巻 狂言記』「巻の二 九 茶壺」
1:底本のまま。
2:底本は「有らは申せと」。
3:底本は「▲壺主すり。[上]「」。
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