どこんさう
▲との「罷出たるは此辺(このあたり)の者で御ざる。左様に御ざれば。何時(いつ)も鞍馬へ。冠者(くわじや)を代参参詣(だいまゐり)に参らするやうに御ざる。今日は某(それがし)が。社参致さうと存ずる。太郎冠者を喚(よ)び出し。申付(まをしつけ)うと存(ぞんず)る。太郎冠者あるか。
▲くわじや「お前に。
▲との「念無う早かつた。汝喚び出す別義でない。鞍馬へ今日は参らうと思ふ程に。供の用意を致しませい。
▲くわじや「支度致して御ざる。
▲と「来い来い。汝は道すがらの名所古跡があらば談(かた)れ。
▲く「畏つて御ざる。とつと御ざりました。
▲と「此河な何と云ふ。
▲く「高野(たかの)河と申(まをし)まする。
▲と「ふん。高野河と云ふはこれか。
▲く「中々。
▲と「聞き及うだより大(いか)い河ぢや。
▲く「則(すなはち)之がみぞろ池で御ざる。
▲と「はて。大(いか)い池ぢやな。来い来い。
▲く「はア。程なう御前(まへ)で御ざりまする。
▲と「手水おくせい。
▲く「畏つて御ざる。
▲と「やい。汝もそれにて拝め。
▲く「はア。
▲と「やい。某(それがし)は今宵はお通夜(つうや)を申(まをす)程に。汝はそれに起(おき)て居つて。鶏(とり)が唱(うた)ふたら起(おこ)しませい。
▲く「畏つて御ざる。申(まをし)殿様。
▲と「何ぢや。
▲く「宿坊から。重(ぢゆう)の内が参りました。
▲と「やい。某が忍(しのび)で参りたをば。何としてか存じあるぞ。御使は。
▲く「いや置いて帰られまして御ざる。
▲と「どりやどりや。寒い程に一つ飲まうぞ。
▲く「上りませい。
▲と「肴は何ぢや。
▲く「茗荷と蓼(たで)とが御ざりまする。
▲と「どりや。其蓼をおこせい。
▲く「はア。
▲と「汝もそれで飲め。
▲く「畏つて御ざる。
▲と「やいやい。汝(おのれ)は肴に何を喰ふたぞ。
▲く「茗荷を喰べました。
▲と「憎い奴の。いとゞ鈍な奴めが。茗荷を喰ひ。いよいよ鈍になつて。使はるゝ事であるまい。
▲く「はア。茗荷を喰べますれば。鈍になりまするか。存じませなんで御ざる。
▲と「知らずば語りて聞かせう。これへ寄つて聞き居ろう。
▲く「は。
▲と「扨も。釈尊の御(み)弟子に周利槃特(しうりはんどく)といふ人あり。此人愚鈍第一の人にてあつた。我(わが)名だに覚えいで。杖の先に書いて歩き。其方(そなた)の名はと尋ぬれば。これよと云ふて差出す程なる愚鈍な人にてあつた。然れども。人間の習(ならひ)にて。終(つひ)には悟道をなされた。土中(どちゆう)につき込めてあれば。塚の上よりも。茗荷一本生えてある。則(すなはち)これを。愚鈍第一の塚より出たれば鈍根草(どこんさう)と。付(つけ)られてある。又釈尊の御弟子に阿難尊者と申(まをす)るは。智恵第一の仏にてあつた。釈迦如来霊鷲山(りやうじゆせん)にて四十余年の御説法を。一字一点も残さずに受取(うけとり)なされたに。第一にてあつた。これも終には悟道をなされ。土中にこめてあれば。其塚から。蓼一本生え出(いづ)る。則此をば利根草と付られてある。神の御前(おまへ)ともいはせず。腹を立(たて)させ居る。下向をする。うせ居ろ。
▲く「はア。
▲と「来るか来るか。
▲く「参りまする。
▲と「やい冠者。某は。も一度御前へ戻らずばなるまい。
▲く「何となされました。
▲と「いや物を忘れて来た。
▲く「はア。蓼を参りました程に。何も忘れはなされますまいが。
▲と「蓼を喰(く)たれども忘れた。
▲く「身共は茗荷を喰べましたれども。物を拾ひました。
▲と「何ぢや見せい。
▲く「此で御ざりまする。
▲と「夫(それ)はおれがぢや。よこし居ろ。
▲く「欲(ほし)う御ざりまするか。なりますまい。
▲と「やいやいやい。やるまいぞやるまいぞ。
底本:『狂言全集 上巻 狂言記』「巻の三 三 どこんさう」
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