法師物くるひ

▲市兵衛「さゞんざ。はま松の音は。あゝ甚(いかう)酔うた事かな。
▲女房「妾(わらは)は此辺(このあたり)の者で御ざる。身共連合(つれやひ)は。殊外(ことのほか)の酒呑(さけのみ)で御ざる。又遅う御ざる程に。ていど又酔ふてゞがな御ざろ。迎(むかひ)に参らうと思ひまする。なう市兵衛殿。何処で其様に酔はつしやれたぞ。情なやな。呑(のむ)者はちくしやう(畜生)でも呑(のむ)が。盛らつしやる人が恨めしい。
▲市「やい其処な女め。盛らつしやる人こそは。結構な人なり。情無いとぬかいて。男の喉を止め居る。出てうせ居れ。
▲女「なう市兵衛殿。行(い)ぬならば行(い)なう程に。暇(いとま)をおくしや。
▲市「いや。暇を欲しがりやる上臈様の顔は。いやいや。
▲女「なう其(その)いな事云はぬとも。急いで暇をおくしやいの。
▲市「おう。何なりとも。汝(おのれ)が欲(ほし)い物を取つてうせい。
▲女「おう。其一腰をおくしや。
▲市「おう。去(さ)るめに何が惜しからうぞ{*1}。さア。取(と)てけ。女房(にようぼ)を去つたれば。心がすつきりとした。まづちと寝ませうず。
▲女「妾は暇を取りまして御ざるが。一人(ひとり)あるかなばふしが。継母(まゝはゝ)にかゝらうと思へば。悲しう御ざりまする。乍去(さりながら)。先(まづ)父様(とつさま)の方(かた)へ向けて帰りませう。
▲五兵衛「罷出たるは此辺(このあたり)の者で御ざる。さやうに御ざれば。市兵衛と申(まをす)者に。女房を媒(なかうど)致して御ざるが。又去りまして御ざるか。女房は泣いて通つて御ざるが。行(い)て見舞はうと存ずる。さればこそたべ酔うて寝(ふせ)つて居る。なう市兵衛起(おき)やれ。
▲市「いゑ。好う御ざりました。やいやい女共。茶を立ていやい。
▲五「なう市兵衛。其方(そなた)何とおしやるぞ。其方(そち)は女房を去つたげなが。
▲市「何とおしやれまするぞ。身共が女房を去つたとおつしやれまするか。
▲五「中々。
▲市「はれひよんな事をおしやる。彼(あれ)は仮令(たとひ)うち出さうと云ふても。行(い)ぬることでは御ざらぬ。
▲五「其証拠がある。一腰がおぢやるまいぞ。
▲市「申(まをし)誠に。夢のやうに覚えました。身共が酒に酔ひまして。仮令去りまするとても。お前の止(とめ)ては下されいで。曲(きよく)も御ざらぬ。
▲五「なうなう。其様に泣いて居た分では埒が明(あく)まい。女子(をなこ)の事ぢや程に{*2}。未(まだ)程遠うは行くまい。急いで追(おつ)かきやす。
▲市「畏つて御ざる。後を頼みまする。
[節中]まづ。はふしが母がのう(能)には。あらきにつるを。はくるが如く。はるはわらびをり。さて又なつは。たをうゑる。秋はいねこき。冬はまた。背戸の窓のあかりにて。もえぎの布をおるとの。おりたる布はなになに。すはう袴じつとく(十徳)。ぬの[スル]このおも[下]てこかたびら。[ハル]いまよりしては誰(た)がお[下]りてくれうなう。[中]はうしが母ぞこひしき。
なう其処許(そこもと)へ物を問はう。二十歳(はたち)ばかりな女房が。手に太刀を提(さ)げ。物案じ姿にて。其方(そのはう)へは行かぬか。
[節中]。山にも見えず。[ハル]里にも[下]見えず。あらはうしが母ぞこひしき。
▲女房{*3}「はうしがはゝ只ひとり。夢のさめたる。[下]こゝちして。親のもとにぞかへらん。
▲市[下]「いかはこひしの御声や。[ハル]さりと[下]てはかへりあり。きやうきをやめてたびたまへ。
▲女「[ハル]見めのわるきは生れつき。一度さられしなかなれば。何しに帰りあふべき。
▲市[中]「みめのわるきも色の黒きも。たゞ酔狂のあまりなり。おことはみめも好きものを。
▲女{*3}「それは誠か。
▲市{*4}「なかなかに。[節][下]なかんなかに。いゝち人のみめの好きは。田中権(ごん)の守。まゝむすめ。聟になりたやなむ三宝。[中]そゞろいとしうてやるせなや。
▲女「さあらば。其儀で候はゞ。急いで誓(ちかひ)を立(たて)たまへ。
▲市「[イロ]諏訪八幡も御示現あれや。元の女(め)に媒(なかうど)なしと。太刀を取つて打担(うちかた)げ。笠を取つて打被(うちき)せ。に[クル]うほう(女房)を先に立て。[下]我家(わがや)に帰る嬉しさよ。我家に帰る嬉しさよ。

底本:『狂言全集 上巻 狂言記』「巻の三 四 法師物くるひ


校訂者注
 1・2:底本のまま。
 3:底本、ここはすべて傍点がある。