粟田口(あわだくち)
▲大名「罷出たるは遠国(をんごく)の大名。太郎冠者(くわじや)有るか。
▲冠者「お前に。
▲大名「念無う早かつた。此中(このぢゆう)の宝比(たからくらべ)は。夥(おびたゞ)しい事は無かつたか。
▲冠者「中々。夥しい事で御ざりました。
▲大名「いづれもの宝に負けいで嬉しいな。
▲冠者「いやも。私等(わたくしら)ていまでが。嬉しう御ざりまする。
▲大名「それよそれよ。乍去(さりながら)明日(みやうにち)は。粟田口を比べさつしやれうと有(ある)。して某(それがし)が宝の内に。粟田口といふ物は無いか。
▲冠者「されば殿様の七万宝(まんはう)のたからのうちに。粟田口は御ざりませぬ。
▲大名「やい冠者。是に負ければ如何(いかゞ)ぢや。汝は都へ参り。急いで求めて来い。
▲冠者「畏つて御ざる。
▲大名「急げ。
▲冠者「はア。扨も扨も。けはしい事を。いひ付(つけ)られて御ざる。先づ参らう。ゑ。左右(とかう)申(まをす)内に。都へ着(つい)て御ざる。はて扨。失念の致した。粟田口屋をば。問はなんで御ざるが。何と致さうぞ。あゝ。欲しい物は喚(よ)ばゝるていと見えた。某(それがし)も呼ばゝりませう。粟田口買はう買はう。
▲すり「罷出たるは。洛中に住居(すまゐ)仕(つかまつ)るすりで御ざる。左様に御ざれば。此中(このぢゆう)仕合(しあはせ)が悪しう御ざる程に。何物にはよるまい。さはたり。仕合せを直さうと存ずる。いゑ。左右(とかう)申(まをす)内に。田舎漢(もの)と見えて。何やら。どんどゝ申(まをす)程に。さはたつて見ませうず。なうなう。其処な人。何をどんどと仰やるぞ。
▲冠者「いや。田舎漢でおぢやるが。粟田口屋を知らいで。斯様(かやう)に申(まをす)。
▲すり「はれ扨。其方(そなた)は仕合せな人ぢや。なうなう。仕合せといふて。袖褄に付いてある物では無い。
▲冠者「して。何で御ざるぞ。
▲すり「いや。某に逢(あ)やつたが仕合せでおぢやる。
▲冠者「して。足下(こなた)は粟田口屋で御ざるか。
▲すり「なう。粟田口屋といふ事は無い。某が粟田口でおぢやる。
▲冠者「して。足下が粟田口か。
▲すり「中々。
▲冠者「して又大名小名の。何とて足下をば重宝をなさるゝぞ。
▲すり「して。其方(そなた)は知りやらぬか。
▲冠者「中々。存ぜぬ。
▲すり「いや。知りやらずば。語(かたつ)て聞かせう。先づ天下太平(たいぺい)芽出度い御代(みよ)ぢや程に。左様の事は有(ある)まいけれども{*1}。若(も)し軍陣の口などで。某が御馬の先へ立てば。冬の大雪の上へ。湯をかける如く。夏の虻蜂をば。大団扇にて扇(あふ)ぎ除(の)けるが如くでおぢやるによつて。それで大名小名の。抱へさつしやれ。都の重宝に。某一人残して置かつしやれたれども。其方(そなた)の余り欲しさうな程に。行かうかと申(まをす)事でおぢやる。
▲冠者「はれ扨。是は辱(かたじけな)うこそ御ざれ。御ざつてさへ下されまするならば。御伴(おとも)申(まをし)ませう。先づ前(さき)へ御ざれ。
▲すり「先づ御ざれ。案内者のためで御ざる程に。
▲冠者「斯(か)う参りまする。申(まをし)々。今からは申合(まをしあは)せませうぞ。
▲すり「何が扨。寄り親どので。御ざる程に。何かの義を頼みまするぞ。
▲冠者「心得ました。左右(とかう)申す内にこれで御ざる。其処に待たつしやれい。
▲すり「心得て御ざる。
▲冠者「殿様御ざりまするか。
▲大名「やいやい。冠者。戻つたか。
▲冠者「帰りまして御ざる。
▲大名{*2}「してその。粟田口は。
▲冠者「御門外に待(まつ)て居りまする。
▲大名「やい冠者。粟田口といふものは。人歟(か)。
▲冠者「あ。
▲大名「やい。そのいつぞや。伯父御様の方から。粟田口の書が来たわ。それを取出(とりだ)せ。合(あは)して見やうに。
▲冠者「はつ。此で御ざりまする。
▲大名「ふん。此か。行(い)て申さうずるには。大義にこれまで好うおりやつた。乍去(さりながら)書に合(あは)する程に。左様(さう)心得と云ふて来い。
▲冠者「畏つて御ざる。なうなう。都人(みやこびと)。殿の仰有(おつしや)るには。大義に好うこそおりやつたれ。乍去。書に合する程に。左様心得て給ふと仰有る。
▲すり「畏つて御ざる。何といになりとも。合(あは)さつしやれいと仰有れませい。
▲冠者「心得ておぢやる。申(まをし)殿様。何といになりとも。合さつしやれいと申まする。
▲大名「やい冠者。引(ひき)抜いて。鎺元(はゞきもと)黒かるべいと有(ある)が。行(い)て黒いか問ふて来い。
▲冠者「はア。なうなう。はゞきもと黒うおぢやるかと。
▲すり「中々。繻子(しゆす)の脚絆のして居るに依つて。黒いとおつしやれい。
▲冠者「申まする。繻子の脚絆のして居りまするに依つて。黒いと申まする。
▲大名「おう。こりや。斯(か)うあらうわいやい。身が古かるべいとあるが。行て。古いかと問ふて来い。
▲冠者「はつ。なうなう。身が古うおぢやるかといの。
▲すり「中々。生(うまれ)まして此方(このかた)。湯風呂を致さぬよつて。随分古いとおつしやれませい。
▲冠者「問ふて参りました。
▲大名「何と云ふぞ。
▲冠者「生れまして此方。湯風呂を致さぬによつて。随分古いと申まする。
▲大名「ふん。こりや。古うはあらうが。穢(むさ)い奴ぢやな。やい。刃が堅かるべいとあるが。はが堅いか。問ふて参れ。
▲冠者「なうなう。はが堅うおぢやるかといの。
▲すり「然(さ)れば。若い折には。岩。がん石でも噛(かみ)割つて御ざる。今もまだ。茶臼の二つや三つは。噛割ろとおつしやれませい。
▲冠者「申(まをし)まする。
▲大名「何とした。
▲冠者「若い折には。岩。がん石でも噛割つて御ざるが。今も茶臼は二つや三つは。噛割らうと申まする。
▲大名「はア。可恐(こは)い奴ぢやな。粟田口には。上作(じやうさく)は。両銘有るべしとあるが。銘が有るか。問ふて来い。
▲冠者「なうなう。上作は。両銘あるべしとあるが。銘がおぢやるかと。問はせらるゝ。
▲すり「然れば。上(かみ)に姉。下京に妹を持つて御ざる。両方女(め)な子が御ざる。いかにも。両めい御ざりますると。おつしやれませう。
▲冠者「申まする。
▲大名「何とした。銘が有るか。
▲冠者「中々。上京に姉。下京に妹を持つて御ざるが。どちらにも。女な子が御ざるによつて。両めい。たつしりと。有ると申(まをし)ます。
▲大名「やい冠者。汝(おのれ)は才覚な奴ぢや。上作を掘出し居つた。行(い)て喚(よ)うで来い。遇(あ)はうわいやい。
▲冠者「畏つて御ざる。なうなう。殿の召さつしやる程に。是へおぢやれ。
▲すり「畏つて御ざる。はア。
▲大名「して。粟田口とは。其方(そなた)の事でおぢやるの。はて扨遠路の所をば。おぢやつてたもり。其上書に合ふて。嬉しうおぢやる。乍去(さりながら)。其方(そなた)の名は。何々と云ふぞ。
▲すり「とうまのぜうと申まする。
▲大名「扨は。其方(そなた)は。総領筋でおぢやるの。扨。苗字は何と申(まをす)ぞ。
▲すり「いや。私が住家(すみか)が。粟田口と申(まをす)に依つて。粟田口と申まする。
▲大名「ふん。扨はこれは。さいみやうでおぢやるの。乍去。其方(そなた)を求めて嬉しい程に。伯父御の。求めたら見せい見せいと。仰せられた程に。大義ながら。来てくりやれ。
▲すり「畏つて御ざりまする。
▲大名「やいやい。太郎冠者。汝(おのれ)は此中(このぢゆう)の草臥(くたびれ)であらう。粟田口さへおぢやれば。ゑい程に。汝(おのれ)は内に居つて休め。さアさア。おぢやれ。粟田口おりやるか。
▲すり「参りまする。
▲大名「とうまのぜう来るか。
▲すり「お前に。
▲大名「はれ扨。其方(そなた)は才覚な者ぢや。疾(と)う抱へやうものを。はア。甚(いかう)しんどな。此刀を持(もつ)てくれさしめ。
▲すり「畏つて御ざる。
▲大名「なうなう。先へ行(い)ても。名を忘るれば悪(わ)るい程に。喚(よ)うで見よ。
▲すり「はつ。
▲大名「粟田口。
▲すり「お前に。
▲大名「とうまのぜう。
▲すり「是に候。
▲大名「粟田口。
▲すり「御前に。
▲大名「とうまのぜう。
▲すり「是に候。
▲大名「扨も扨も。あゝ。をかしい事かな。疾う抱へうものを。其方(そなた)にかゝつて。声も枯れる。少(ちつと)。早う喚(よ)ぶ程に。是も持つてくりやれ。
▲すり「はつ。
▲大名「大小ながら持たしたれば。身も軽うなつて。さアさア。喚(よ)ぶぞ。粟田口。
▲すり「お前に。
▲大名「とうまのぜう。
▲すり「これに候。
▲大名「なうなう。今度は長う節でよぼ。
▲すり「はつ。能(よ)い時分で御ざる。外しませう。
▲大名[舞節]「粟田口。とうまのぜう。粟田口。
是はさて。居らぬわ。なうなう。そこもとへ。粟田口には鞘走りませぬか。そこもとへ。粟田口は錆付きませぬか。
[ふし][ル]{*3}行(ゆき)くるに。とうまのぜう。太刀刀も粟田口。都のだましにだまされた。
しなしたるなりかな。
底本:『狂言全集 上巻 狂言記』「巻の四 二 粟田口」
校訂者注
1:底本は「有まいけれども 若し」。
2:底本に「▲」はない。
3:底本のまま。
コメント