奈須の与一
扨も四国の兵士(つはもの)。平家を反(そむ)き源氏に参る侍。茲処(こゝ)彼処(かしこ)の方よりも。十騎二十騎走(は)せ集まり。程無く。判官の御勢(ごせい)。三百余騎になり給ふ。今日は日暮れぬ。明日の戦(いくさ)と相定め。引退(ひきしりぞき)し処に{*1}。沖の方(かた)より小船(せうせん)一艘尋常に飾り。陸(くが)に向(むか)つて。ゑいやゑいやと押させける。渚七八段斗(ばか)り沖。船を横さまになす。怪しやと見る処に。船の内には年の比(ころ)十八九ばかりなる傾城の。血潮の袴ふみくゝみ。みな紅の扇の日を出したるを。船の脊櫂(せかい)に。よさよさと挿(はさ)み立て。陸(くが)の方(かた)を招きける。其時判官御覧じて。後藤兵衛実基を召され。彼(あ)れは如何にと御諚(ごぢやう)ある。実基承つて。さん候。彼(あ)れは陸(くが)の大将軍の矢表にたて。傾城を御覧じられ候処を、てだれの射手(いて)を船底に隠し置き。射落し申さんとの。謀(はかりごと)にてあるらん。いつかふ。彼(あ)の扇をば。此方(こなた)より射させられ候へ。と。申上(まをしあ)げければ。判官聞こしめし。扨味方に射つべき者は誰か誰か。其時実基。御味方に射つべき者は。数多(あまた)御座候中にも。下野の国の住人。奈須の太郎資高が子に。与一宗高と申(まをし)て御ざるが。翔鳥(かけとり)などを仕(つかまつ)るに。三つに二つは。射おうせ申候と申上ければ。扨其与一といふ者は。何処(いづく)に居た。与一与一とありしかば。其時与一二十歳ばかりの男子(をのこ)なるが。大口端袖(おほくちはたそで)。彩色(いろ)ひたる直垂に。萌黄縅の鎧を着。兜を脱いで高紐にかけ。君の御前(おんまへ)に畏る。判官御覧じて。やア。如何に与一。彼(あ)の沖に立つたる扇をば。定めて味方の軍兵に。射よとの謀(はかりごと)にてあならんめる{*2}。彼(あ)の扇の真中(まんなか)。一矢射。敵味方に見物させよ。与一与一とありしかば。其時与市畏つて候。左様の分のもの。未だ仕(つかまつ)りたる事無く候間。いちじやう仕るべきものに。仰付けられ候へと申上ければ。其時判官。夫(それ)鎌倉を立つて。西国に向はんずる兵士が。少しも義経が命を背くべからず。疾(とう)々引いて鎌倉へ下り候へ。急(いそぎ)御下り候へ。其時与一はつちやこはもの。はつと心に存じ。御前を罷立(まかりた)つて。其頃奈須のこぐろとて聞(きこ)うる名馬に。まるほやすつたる金覆輪の鞍置かせ。我(わが)身軽(かろ)げにゆらりと乗り。重籐の弓の真中握り横たへ。渚に向つて歩ませ行く。其時御前にありあふ人々。只今の若者こそ。いちじやう仕るべき由。御申(まをし)なされ候へば。判官頼もし気に見やり給ひ。莞爾(にこにこ)笑ひ給ふ。其時与一。馬の太腹の浸る程。海にざつふと乗り入るゝ。頃は二月(ぐわつ)十日(か)の事なるに。波風烈しく吹いて。磯うつ浪高かりし。浮(うき)に沈みの扇も。定かならず。其時与一。潮(うしほ)を掬(むす)んで手水とし。眼(まなこ)を塞(ふさ)ぎ。南無帰命八幡大菩薩。別して我(わが)国の那須はゆうぜん大明神。本国に還(かへ)さんと思(おぼし)召さば。此矢外させ給ふなよ。若(も)し射損ずる物ならば。弓二つに切り折り。海中に飛込み。毒竜となつて。源氏方の氏神にさゝはりを為さん事必定也と。眼(まなこ)を開き見てあれば。浪風とうと静まつて。扇も射よげにこそ見えにけり。其時与一。小兵とはいふぢやう。三人張りに十三束(そく)。よつぴいてひやうと射た。此矢過(あやま)たず。扇のくまでをひいふつと射切つて。かふらは海に入り。みな紅の扇は。春風に一揉み。二揉み。揉まれ。雲にあがつて海にざつぶと入る。其時平家は舷(ふなばた)を叩いて。射たりや射たりと感じければ{*3}。源氏は箙(えびら)を叩いて。射たりや射たり与一とて喜ぶ。其時はうくわん(判官)余りの嬉しさに。小額(こびたひ)礑(はた)とうつて。最(い)とうしの与一や。好う射させたけなもの{*4}。此方(こつち)へ来て。餅を飲(の)うで。酒を食へと御諚(ごぢやう)あつたとぞ申されける。
底本:『狂言全集 上巻 狂言記』「巻の四 三 奈須の与一」
校訂者注
1:底本は「引退し処た。」。
2:底本のまま。
3:底本は「感じけれは」。
4:底本は「好う射させた けなもの」。
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