羯鼓(かつこ)焙碌(ほうろく)
▲目代「罷出たるは所の目代。所繁昌に付(つき)。新市を立(たて)うと存ずる。先づ札を揚げませうず。一段札なり見事に御ざる。先づ。宿へ帰ろ。
▲羯鼓張「罷出たるは羯鼓張で御ざる。左様に御ざれば。所富貴(ふつき)に付(つき)。新市を御立(たて)なされると。承(うけたまはつ)て御ざる。今は。斯様(かやう)の物をば商(あきなひ)まするとも。一の棚を領(れう)じ。まんぞうくちを許され。末々は。金銀などを商ふやうにと存ずる。先づ。徐(そろ)々参らう。程無う市場さうに御ざる。扨も扨も。繁昌の市は。箕(み)の手形(てなり)に立(たつ)と申(まをす)が。彼(あ)れから是へ。是から彼(あれ)へ。扨も扨も。好い場で御ざる。先づ。市頭(いちがしら)へ参ろ。はア。こゝもとが好さゝうに御ざる。先づ。棚を飾りませう。夜も深さうに御ざる程に。少(ちと)睡(まどろ)みませう。
▲わさなべ(焙碌)売「罷出たるはわさなべ(焙碌)売で御ざる。所富貴に付(つき)。新市を御立(たて)なさるゝと。承つて御ざる。いや。程無う市場で御ざる。何処許(もと)に札が揚(あが)つたぞ。いゑ。此処に在る。先づ。拝領致さう。扨も扨も。某(それがし)よりも先へかう(来)者は有るまいと存じたれば{*1}。羯鼓張がきよろりとして居る。彼(あ)の先へ飾りませうず。
▲羯鼓「はア扨。久しう寐たことかな。是は如何なこと。人の棚の先に。して。何事ぢやぞ。
▲わさなべ「いや。某は商買人ぢやい。
▲羯鼓「やい。商売人なら。傍(わき)へ寄つて商ふたが好いわいやい。
▲わさなべ「はア。汝(おぬし)傍へ寄つて商へ。
▲羯鼓「実正(じつしやう)退(の)かぬか。退(の)かざ退(の)かするが。
▲わさなべ「して。其方(そち)が。何とせうと思ふて。
▲羯鼓「や。此処な奴は。出合へ出合へ。
▲目代「是は何とした事ぢや。
▲羯鼓「御前(おまへ)は誰人(どなた)で御ざりまするぞ。
▲目代「いや。所の目代ぢや。
▲羯鼓「はア。存じませなんで御ざる。お礼申(まをし)まする。
▲目代「礼まではいるまい。何事なれば。
▲羯鼓「其御事で御ざりまする。一の棚を飾つて御ざれば。彼(あ)の者めが棚先に居つて。退(の)くまいと申(まをす)によつて。斯様(かやう)の通りで御ざりまする。
▲わさなべ「申(まをし)々。彼(あ)の羯鼓張が申(まをす)事は。詐(いつはり)で御ざる。某が。一の棚を飾つて御ざる。其証拠が御ざる。札を拝領致して御ざる。
▲羯鼓「申(まをし)々。彼(あ)のわさなべ売めが申(まをす)ので知れて御ざる。身共は。夜深(よぶか)に参じたに依つて。札が何処に掲(あが)つて御ざるも。存じなんで御ざる。
▲目代「ふん。是も斯(か)うぢやわいやい。
▲羯鼓「それに付(つき)まして。此羯鼓などの傍に。何ぞよ。土焙碌などは。飾らするものでは御ざらぬ。づゝと。市末(いちすゑ)へやらしやれませい。
▲目代「して。其羯鼓には。系図が有るか。
▲羯鼓「中々系図が御ざる。
▲目代「其義ならば。何方(どちら)なりとも。系図に負けた方が。市末へ行(い)たがよいわ。
▲羯鼓「左様で御ざりまする。先づ彼(あ)の{*2}。土焙碌にも。系図が有るか。問はつしやれませい。
▲目代「心得た。
▲わさなべ「申(まをし)々。これで承(うけたまはつ)て御ざる。此わさなべ様には。殊の外系図が御ざる。先づ彼(あ)の者に。有らば言へと。御意なされませい。
▲目代「心得た。
▲羯鼓「申(まをし)々。承つて御ざる。即(すなはち)此羯鼓などゝ申するは。児(ちご)若衆達が。羯鼓遊(あそび)。八桴(やつばち)などと申(まをし)て御ざりまする。その上。焙碌遊(あそび)などゝ申(まをす)事御ざりますまい。
▲目代「おう。是も斯(かう)ぢやわいやい。汝聞いたか。
▲わさなべ「中々承りました。如何程彼(あれ)が彼(あ)のやうに申(まをす)とも。此中(このなか)な物をば参らずば。児(ちご)若衆達も。羯鼓も八桴(やつばち)も。いる事では御ざりますまい。
▲目代「おう。是も斯(か)うぢやわいやい。やいやい。彼(あ)の者が言分(いひぶん)を聞いたか。
▲羯鼓「中々承りました。又此羯鼓は{*3}。古歌にも引いて御ざる。かつこ苔ふかうして。鳥驚かすと申(まをし)て。世話に上(の)つて御ざるが。彼(あ)の土焙碌が上(の)つて有るか。問はつしやれませい。
▲わさなべ「申(まをし)々。彼(あ)の者が。世話に上(の)つて有ると申すれば。某も上(の)つて御ざる。先づ。高きやに。のぼりてみれば。煙立つ。民のかまどは。賑(にぎは)ひにけり。と申(まをす)時には。これも上(の)つて御ざる
▲目代「扨は。系図は組(くん)で落(おち)た。して。も。系図は無いか。
▲羯鼓「いや。是から勝負得(しようぶどく)に致しませう。
▲目代「おう。一段であらうぞ。
▲羯鼓「身共は棒を振りませうが。彼(あ)のわさなべ売も振らうか。問はつしやれませい。
▲目代「やいやい。彼(あ)の者は棒を振らうと云ふが。汝も振らうか。
▲わさなべ「彼(あ)の者さへ振りませうならば何とやうにも振りませう。先づ。急いで振れとおしやれませい。
▲目代「是へ出て振りませい。
▲羯鼓「畏つて御ざる。いや。ゑいゑい。いやつと。振つて御ざる。
▲目代「やいやい。汝も急いで振れ。
▲わさなべ「畏つて御ざる。あの棒を貸せと。おつしやれて下されい。
▲目代「心得た。やいやい。彼(あ)の者に棒を貸せ。
▲羯鼓「各(めん)々の物で振れとおつしやれませい。
▲わさなべ「あゝ。承りました。強(きつ)い奴で御ざる。わさなべ(焙碌)でなり共。振つて見ませう。是へ出で見さしませい{*4}。
▲羯鼓「急いで振れいの。
▲わさなべ「いや。ゑいゑい。いやつと。振つて御ざる。
▲目代「はア。見事振つた。
▲羯鼓「申(まをし)々。某は羯鼓を打ちませうが。彼奴(きやつ)も打たうか。問はつしやれませい。
▲わさなべ「申(まをし)々。承(うけたまはつ)て御ざる。急いで打てとおつしやれませい。
▲目代「やいやい。彼(あ)の者は。打たうと云ふ程に。急いでうて。
▲羯鼓「畏つて御ざる。ゑいゑい。打つて御ざる。彼(あれ)にも急いで打てと。おつしやれませ。
▲目代「汝も急いで打て。
▲わさなべ「畏つて御ざる。乍去(さりながら)。彼(あ)の羯鼓を貸せと。おつしやれて下されい。
▲目代「いや心得た。
▲羯鼓「いやはや。是で承りました。各(めん)々の物で打てとおつしやれませい。したが。何は嫌。彼(か)は嫌と申すれば。彼奴(きやつ)が無下ないと存ぜう程に。羯鼓はならぬ。此桴(ばち)は貸すとおつしやれませい。
▲目代「おう。やいやい。羯鼓はならぬ。桴(ばち)は貸すと云ふぞ。
▲わさなべ「扨は彼奴(きやつ)も。少(ちつと)は心が直つたと見えました。
▲目代「急いで打て。
▲わさなべ「畏つて御ざる。はア。こゝな。
▲目代「何としたぞ。
▲わさなべ「心が直つたと存じたりや。割らする工(たくみ)で御ざつた。
▲羯鼓「ちつと然(さ)うもおぢやるまい。
▲わさなべ「申(まをし)々。出て見よ。打つとおつしやれませい。ほつひや。とうろ。ひやり。とうろ。ろうろやつと打(うち)まして御ざる。
▲目代「おう。一段打つた。
▲羯鼓「中々。彼(あ)の者も見事打つて御ざる。今度は。相打(あひうち)に致しませう。
▲目代「やいやい。急いで相打に打(うち)ませい。
▲わさなべ「畏つて御ざる。
▲二人[相打]「ほつひや。とうろ。ひやり。とうろ。ろうろ。
▲わさなべ「南無三宝{*5}。しなしたる形(なり)かな。
底本:『狂言全集 上巻 狂言記』「巻の五 一 羯鼓焙碌」
校訂者注
1:底本は「存したれば」。
2:底本は「彼の 土焙碌にも」。
3:底本は「此羯鼓は 古歌にも」。
4:底本は「見(これ)へ出で見さしませい」。
5:底本は「▲わさなべ。南無四宝(なむさんぼう)」。
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