伊文字(いもんじ)
▲大名「太郎冠者(くわじや)有るか。
▲冠者「御前に{*1}。
▲大名「汝が知る如く。此年になるまで。定まる妻が無い。清水の観音は。妻観音と承る。是へ参り。定まる妻を申(まをし)受けうと思ふ。供を仕(つかまつ)れ。
▲冠者「これは一段で御ざらう。皆人の云ひまするは。其方(そち)の主(しゆう)は。牛か馬の生れ変りであらうと申(まをし)まする。意(こゝろ)はと問へば。定まる妻が無い程にと申(まをし)ますをば。私も。口惜しう御ざりまする。急いで参らつしやれませい。
▲大名「それは是に限らず。皆人毎に。悪口を云ふものぢや。気にかけな。急いで供を仕(つかまつ)れ。
▲冠者「殿様殿様。是は子安の堂で御ざる。拝まつしやれい。
▲大名「はて。先づ清水へ参ろ。急げ。
▲冠者「はて。無分別な事をおつしやる。お嬶(かつ)様の喜びさつしやる折に。安う生(うま)れさつしやる。子安の堂ぢやほどに。拝まつしやれいと云ふ事で御ざる。
▲大名「おうおう。芽出度(めでたし)芽出度。下向に拝まう。急げ急げ。はや御前(おまへ)ぢや。先づ。鰐口に取(とり)着かう。ぢやぐわんぢやぐわん。いかに申上候。某(それがし)定まる妻を持ちませぬ。定まる妻を授けて下されい。あら。尊とや尊とや。やい冠者。身は茲(こゝ)にて通夜を致さう。汝は番をして。鶏が唱うたら起(おこ)せ。
▲冠者「是は如何な事。主(ぬし)は寝て。某は起きて居つて番をせい。これが淋しうて。起(おき)て居られうか。殿様殿様。
▲大名「何事ぢや。鶏が唱ふたか。
▲冠者「はつ。鶏が唱うやら。今欠伸しました。
▲大名「茲(こゝ)な痴者(たはけ)は。欠伸はいらぬ。唱うたら起せ。
▲冠者「人をよものにするまでい。あはゝ。それを知らぬ者があらうか。いやいや。某も眠たい。少(ちよと)睡(まどろ)みませう。
▲大名「はア。太郎冠者太郎冠者。
▲冠者「はつ。鶏が唱ひましたか。
▲大名「こゝな狼狽(うろたへ)者めが。難有(ありがたい)御夢想が有つたわ。汝が妻にならう者は。西門(さいもん)の石階(きざはし)に居るぞ。連(つれ)て帰れと。仰せられた。いざ西門へ行かう。
▲冠者「これは芽出度事かな。急いで御ざりませい。
▲大名「あれや。あれに立(たつ)て御ざるわ。急いで連(つれ)まして来い。
▲冠者「畏つた。殿様殿様。こなた御ざりませい。私は恥(はづか)しう御ざる。
▲大名「何の恥かしい事が有ろぞ。急いで負ふて参れ。
▲冠者「畏つた。いかに上臈へ申す。輿乗物を進じませうけれど。某が脊中を。乗物と思召(おぼしめし)。是へ負はれさつしやれい。私は。殿様の譜第の者で御ざる。今よりは目をかけて。可愛(かはゆ)がつて下されい。早う負はれさつしやれいませい。
▲上臈[歌]「こ[クル]ひしく[二]ば。たづねてきませい。伊勢の国。いせ寺[入]もとに。すむぞ[入]わらはゝ。
▲冠者「はつて。其物語は。晩の寝物語になされい。早う負はれさつしやれい。是は如何な事。今上臈は。何処(どち)やらおいねやつた。殿様殿様。御ざりました御ざりました。
▲大名「どれどれ。対面せう。
▲冠者「彼方(あち)へ御ざりました。
▲大名「それは何事をいふ。
▲冠者「然(さ)れば其事で御ざる。何(な)にやら小言をおつしやれて。何方(どちら)へやら御ざりました。
▲大名「それは何とおつしやれた。
▲冠者「こひしくば。たづねてきませい。いゝいとおつしやれたと思ひましたれば。終(つひ)帰らつしやれて御ざる。
▲大名「其いゝの後は無かつたか。
▲冠者「何やらまだ。ぐちぐちとおつしやれて御ざる。
▲大名「これは歌さうな。何としたものであらうぞ。気の毒な事ぢや。思ひ付(つけ)た事がある。此所(こゝ)に関を据(すゑ)。何者なりとも。此後を続(つ)がせうと思ふ。
▲冠者「天下太平目出度(めでたい)御代(みよ)に。関と事は御ざるまい。
▲大名「鳥目を取らぬ程に。苦しかるまい。
▲冠者「誠に然(さ)うで御ざる。
▲大名「然(さ)らば此所(このところ)に関を据(す)よ。
▲道行人「斯様(かやう)に候者は。早使(はやつかひ)の者に候。急ぎませう。
▲冠者「さア。掛(かゝ)つた。
▲道行人「掛(かゝ)つたとは。鳥獣(とりけだもの)のやうに何事ぞ。
▲冠者「これは関でおぢやる。
▲道行人「天下太平目出度御代に。関とは何事ぞ。
▲冠者「然(さ)れば。鳥目を取りませぬよ。
▲道行人「先づ安堵致いた。何の為の関にておぢやるぞ。
▲冠者「其事でおぢやる。彼(あ)れに立たせられたは。某が頼(たの)うだ人でおぢやる。あの年まで。定まる妻が無いに依つて。清水の観世音に。申(まをし)妻をして有るが。案の如く妻を下された。此上臈の哥を読まれ。何方(どち)へやらおぢやつた。此歌の後を続(つが)せう為の関でおぢやる。急いで。歌の後を続(つ)いで通りやれ。
▲道行人「其使(つかひ)は。何者がしたぞ。
▲冠者「此賢い太郎冠者。
▲道行人「賢い太郎冠者さへ知らぬ物。道行人(みちゆきびと)が知らう事は。退(の)け通ろ。
▲大名「太郎冠者太郎冠者。歌の後を継がずば。通すな通すな。
▲道行人「これは迷惑な事かな。其歌の先は何と。
▲冠者「恋しくば。問うても来ませい。いゝまでは覚えたが。後は忘れた。
▲道行人「是はいの字のついた国であらう程に。一つ二つ云ふて見ませう。思ひ当つたら。答へさつしやれい。
▲冠者「然(さ)らば。云ふて御ろん(御覧)じやれい。
▲道行人{*2}「[イロ]おもひもよらぬ関守に。なかうどするぞおかしき。
[地]おかしき。
「ゑい。いの字のついた国の名国の名。いの字のついた国ならば。伊賀の国のことかなう。
▲大名。冠者{*3}「ゑい。それにても候はず。思ひもよらぬ国の名。
▲道行人{*4}「扨は何処の国ぞの。いの字の付いた国なら。伊勢の国の事かなう。
▲冠者「応。其伊勢の国伊勢の国。
▲大名「さあらば。吟じて見よ。
▲大名。冠者{*5}「こひしくば。たづねて来ませい。伊勢の国。いゝ。又いで詰(つま)つた。なうなう。又いで詰(つま)つた。
▲道行人「いで詰(つま)らうと。とうしんで詰(つま)らうと{*6}。某は急ぎの使(つかひ)ぢや。又後から来る者に続(つが)しや。
▲冠者「嫌でも応でも続(つ)がねば通さぬ。
▲道行人「はてこれは。気の毒な事かな。国には。里が無うてかなはぬものぢや。里の名を云ふて見よほどに。思ひ当つたら答(こた)やろ。
▲冠者「あゝ。其方(そなた)は。才覚な人ぢや。急いでおしやれ。
▲道行人{*7}「ゑい[ハヤシ]ゑい。いの字のついた里の名里の名。いの字のついた里ならば。いこまの里の事かの。
▲大名。冠者{*8}「それにても候はず。思ひもよらぬ里の名。
▲道行人{*9}「神変(じんぺん)や奇特(きどく)や扨は何処の里ぞの。いの字のついた里なら。いせ寺もとの事かの。
▲冠者「おう。それそれ。其伊勢寺もと伊勢寺もと。
▲大名「さらば吟じて見よ。
▲大名。冠者{*10}「こ[クル]ひしくば。たづねてきませい。伊勢の国。いせ寺もとに。すむぞわらはゝ。
▲道行人{*11}「是までなれや関守。然(さ)らば暇(いとま)申さん。
▲大名。冠者{*12}「あら。名残惜しやの。
▲道行人「こなたも名残惜しければ。あの日をごろぜ(御覧ぜ)。山の端にかゝつた。
▲三人「めいめいざらりと。むめはほろびておつるとも。まつはえだに。とまつたとまつた。ほつはいひやろ。ひつ。
底本:『狂言全集 上巻 狂言記』「巻の五 二 伊文字」
校訂者注
1:底本は「御前に「」。
2・3:底本、「ゑい」だけ傍点がなく、それ以外は全て傍点がある。
4:底本、ここは全て傍点がある。
5:底本、「伊勢の国。いゝ」まで傍点がある。
6:底本は「とうしんで詰らると」。
7:底本、「ゑいゑい」だけ傍点がなく、それ以外は全て傍点がある。
8・9:底本、ここは全て傍点がある。
10:底本は「大名冠者」。また、ここも全て傍点がある。
11:底本、「是までなれや関守」に傍点がある。
12:底本、これ以降最後まで傍点がある。
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