武悪(ぶあく)
▲大名「罷出たるは隠(かくれ)も無い大名。左様に御ざれば。某(それがし)使ふ下人に。無(ぶ)奉公を仕居(しを)る奴が御ざる。太郎冠者(くわじや)を喚(よ)び出し。捕縛(からめとり)に遣(や)らうと存ずる。在るかやい。
▲冠者「はつ。御前(まへ)に。
▲大名「念無う早かつた。汝を喚(よ)び出す余の儀で無い。武悪めを。汝急いで。捕縛(からめとつ)て参れ。
▲冠者「あゝ。乍去(さりながら)。彼(あ)れも御館(やかた)では覚(おぼえ)の者で御ざれば。得(え)捕縛(からめとり)ますまい。
▲大名「誠得(え)捕縛(からめと)らずば。首を打(うつ)て来い。
▲冠者「畏つて御ざる。乍去。身共がさしまへは覚(おぼえ)が御ざらぬ。御前(おまへ)の御太刀を貸さつしやれませう。
▲大名「応。これやこれや。急いで打損(うちそこな)はぬやうに。撃(うつ)て参れ。
▲冠者「畏つて御ざる。扨も扨も。迷惑な事を言付(いひつ)けられた事かな。まづ参らずばなるまいが。程無うこれで御ざる。物も。お案内。
▲武悪「やら奇特や。聞いたやうな声ぢやが。案内は誰(た)そ。いや。太郎冠者か。
▲冠者「中々。内に御ざるか。
▲武悪「やい。太郎冠者。殿の不興を蒙り。汝が来たとても。心は縦(ゆる)さぬ。
▲冠者「はてさて。ひよんな事をおしやる。皆御朋輩衆集(よ)らつしやれて。武悪といふ者は。家久しう覚(おぼえ)の者をば。斯様(かやう)にして置かつしやるのは。殿の違ひぢやとあつて。皆おつしやるのには。お前を直さうとおつしやる程に。其方(そなた)は急いで川狩(かはがり)に出やつて。雑魚(ざこ)を取つて。御前へ持(もつ)て出やつたら好うおぢやろ。又殿も今日は川狩に出らるゝ。そこで。御朋輩衆が。申(まをし)直さうとおつしやる程に。急いで出やす。
▲武悪「はれさて。嬉しや。其儀ならば行かう程に。さアさア。其方(そなた)も来てくりやれ。
▲冠者「心得ておぢやる。
▲武悪「あゝ。ゑいす(好い洲)を見付けておぢやる。大多数(いかいこと)の雑魚でおぢやる。なうなう。失念した事がおぢやる。余り嬉しいまかせに。網をも持たずに。ひよいと出たわいの。
▲冠者「なうなう。何としたものでおぢやろ。
▲武悪「あゝ。身が草寄せと云ふ事を知つておぢやる程に。さアさア。其方(そのはう)から逐ふてくれさしめ。
▲冠者「心得ておぢやる。
▲武悪「身は是からおして行くぞ。
▲冠者「殿の仰(おほせ)ぢや。覚悟せい。
▲武悪「やい太郎冠者。汝が云ふ事誠と思ふて。ひよつと出たれば。誠に鳥の目を縫ふて放したやうな事をして。曲も無い者ぢや。宿でも。斯(か)うと云ふてくれるならば。妻(め)こ子供に。言ひ置きたい事も有るのに。曲も無い者ぢや。是非に叶はぬ。急いで打たせませ。
▲冠者「其方(そなた)が歎きやるのをば思ふては。今日は人の身の上。明日は我(わが)身の上。世の中に。宮仕(みやづかへ)などをせうものでは無い。
▲武悪「物を思はせずとも。早う打(うつ)てくれいやい。
▲冠者「いや。討たうとは思ふたれども。何として身が討たうぞ。(二人共に泣く。)「急いで落(おち)させませ。
▲武悪「否(いや)々。物思はせずとも。早う討(うつ)てくれさしめ。
▲冠者「命が物種ぢや。急いで落(おち)させませ。
▲武悪「それはして。誠でおぢやるか。
▲冠者「中々。
▲武悪「したら。後の儀を頼む。
▲冠者「片時(へんじ)も急いで落(おち)させませ。
▲武悪「やれ扨。鰐の口を遁(のが)れた。最早(もはや)今が都の名残でおぢやる程に。清水へ暇請(いとまごひ)に参りませう。(中入)
▲冠者「先づ。急いで殿の前に参らうず。殿様御ざりまするか。
▲大名「やいやい。何とした。討(うつ)て来たか。
▲冠者「中々。討(うち)まして御ざります。
▲大名「して何として討(うつ)たぞ。
▲冠者「其御事で御ざりまする。彼奴(きやつ)は手者(てしや)と思はつしやれませい。又身どもは。何にも存ぜぬ者の事で御ざれば。騙さずばなるまいと存じ。朋輩衆のおつしやるゝ。殿の御前へ。言ひ直さう程に。殿も川狩に出さつしやる程に。其方(そなた)も急いでお出やつたら好からうと申(まをし)て御ざれば。それを序(ついで)に。言ひ直してくれうとおつしやる事かとて。嬉しがつて。なにが川ヘでまして。深い所で草寄せを致します処をば。身共が此のお太刀でもつて。何が御座らうぞ。水もたまらず。ぶちはなして御ざる。扨も扨も。好う切れる御太刀で御ざる。
▲大名「好う切れたか。
▲冠者「中々。好う切れまして御ざる。
▲大名「でかいたでかいた。やい。して。別に何も云ひは為(せ)なんだか。
▲冠者「そこで申(まをし)ますのには。やい太郎冠者。常に等閑(とうかん)無うして。甲斐も無い。妻(め)こ子供にも見せて。内では討(うつ)てくれいで。曲もない者ぢやと申(まをし)て。甚(いかう)恨みまして御ざる。扨も扨も。奉公と云ふものは。物憂いもので御ざりまする。少(すこし)の違(ちがひ)が御ざると。あれで御ざる所で。
▲大名「やい。誠に汝が云ひつる如く。思へば家久しい者をば。むざ(無惨)と討つて捨てた事ぢや。
▲冠者「殿様も左様に思はつしやれまするか。
▲大名「汝が泣くので。我も討(うつ)まいものとは思へども。最早(もはや)討(うつ)た者は戻るまい程に。身も涙を止(とめ)るぞ。汝(われ)も泣罷(なきや)め。やい。斯(か)うして居たらば。面白い事も無い程に。いざ来い。物忘れに。清水へ参ろ。汝も供に来い。
▲冠者「畏つて御ざる。
▲大名「はて扨。思へば惜(をし)い事を仕(し)たわいやい。
▲冠者「御意の通りで御ざりまする。
▲大名「やい太郎冠者。彼(あ)の向(むかふ)から来るは。武悪では無いか。急いで見て参れ。
▲冠者「あゝ。茲処(こゝ)は六道で御ざりまする処で。迷ふてがな居るもので御ざろ。急いで見て参りませう。やいやい。今殿の見付けられたが。急いで落(おち)はせいで。
▲武悪「己(おれ)もさて。一期(ご)の名残ぢやと思ふて。清水へ参つて見付(みつけ)られた。天の網が来さつた。覚悟した。
▲冠者「なうなう。急いで様を変(かへ)て出さしませ。幽霊のやうにして。
▲武悪「中々。心得ておぢやる。(中入)
▲冠者「申(まをし)殿様御ざりまするか。今のは武悪がやうに御ざりましたが。追懸(おつかけ)て参ると見失なひまして御ざる。
▲大名「やいやい冠者。あれやあれや。又出居つたわ。
▲冠者「扨は。も。幽霊に紛(まが)ひは御ざりませぬ。
▲武悪(白小袖を着て。白小袖を打被(うちか)け。つぼをつて。杖をつき。捌き髪。額(ひたへ)に紙を当(あて)て出る。){*1}「娑婆にも行かず冥土にも。六道の衢(ちまた)にまよふ{*2}。
▲冠者「あゝ申(まをし)々。武悪が亡霊(もうれい)には。隠(かくれ)も御ざりませぬ。
▲武悪「申(まをし)々。
▲冠者「あれあれ。武悪が呼びまする。
▲大名「いて何といふぞ。聞いて来い。
▲冠者「いや。行(い)て殿様聞かつしやれませい。
▲大名「汝(われ)行(い)て聞いて来い。
▲武悪「申(まをし)々。祖父御(おほぢご)様からお使(つかひ)に参りましたのに。好い処で御目に懸りました。朝夕閻魔様へ。出仕をなされまするのに。御太刀が無うて。迷惑されまする。身共に参つて。取つて来いとおつしやれました程に。いくさつしやれませい。
▲大名「やいやい。館(やかた)でならば。熨斗つけを進上すれども{*3}。道で逢ふた義で御ざるに依つて。佩荒(さしあら)したれども{*4}。之を進ずると申(まをし)てくれい。
▲武悪「左様には申(まをし)ませう。素袍(すはう)袴扇までを。よこさつしやれいとおつしやれました。
▲大名「応。心得た心得た。やい太郎冠者。脱がしてくれい。皺がよりましたれども。召さつしやれて下されいと申(まをし)て。是を持(もつ)て行け。冠者。
▲冠者「これや武悪。取(とつ)て行け。
▲武悪「なうなう冠者殿。取る物は取りましたが。殿の直(ぢき)に御目に掛(かゝ)つて申せと。おつしやれた事が御ざる。
▲冠者「申(まをし)々殿様。武悪が直に申たいと申まする。
▲大名「やア。何とした事ぢやな。
▲武悪「申殿様。
▲大名「何で御ざるぞ。
▲武悪「祖父御(おほぢご)様のおつしやれまするのは。狭(せば)い娑婆に御ざりませうよりも。広い処へお供して来いとおつしやれました程に。如何(どう)御ざろと。いで御ざりませう。お供して参ろ。
▲大名「やいやい武悪。祖父御様に。狭(せば)うても茲処(こゝ)が好う御ざる。ずつとこん度参らうと申(まをし)てくれい。
▲武悪「如何(どう)御ざつても。身共が斯(か)う申(まをす)からは。手を引いてなりとも。連(つれ)まして参らねばなりませぬ。
▲冠者「申(まをし)殿様。彼(あ)の態(てい)ならば。武悪めが手を引いて参らう程に。先づ。急いで逃げさつしやれませう。
▲大名「やい。それよそれよ。冠者も逃げい。
▲冠者「申(まをし)々。さればこそ殿も逃げられた。武悪。好い調誼(てうぎ)でなかつたか。
▲武悪「然(さ)れば然れば。其方(そなた)の蔭で嬉しうおぢやる。思ひもよらぬ。路銭(ろぎん)迄を貰うた。
▲冠者「急いで落ちさせませ。
▲武悪「心得ておぢやる。後を頼む。然(さ)らば然らば。
底本:『狂言全集 上巻 狂言記』「巻の五 四 武悪」
校訂者注
1:底本、ここは全て傍点がある。
2:底本は「六通(だう)の衢にまよふ」。
3:底本は「熨斗つけを進上ずれども」。
4:底本は「佩荒したれとも」。
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