▲アト「罷出たる者は。此辺(このあたり)の者で御ざる。某(それがし)は鴬を好いて飼(かひ)ます。今日は殊の外天気も好う御ざる程に。鴬に水を浴(あび)せうと存じ罷出(まかりいで)た。此先に谷水の流るゝ所が御ざる。彼(あれ)へ持(もつ)て参らう。
[道行]。誠に。諸鳥様々(さまざま)御ざれども。鴬程重宝な鳥は御ざるまい。やア。此処許(こゝもと)が好かろ。先づ茲処(こゝ)に置いて。身共は彼処(あれ)から見物致さう。(鴬籠は円(まる)床机を持出(もちいづ)るなり)
▲シテ「罷出たる者は。此辺(このあたり)に住(すま)ふ者で御ざる。某或方(さるかた)で小人(せうじん)を見初(みそ)めまして。様々(さまざま)と縁を以て申(まをし)て御ざれば。情(なさけ)深い御方で。お盃を下されて御ざる。此やうな嬉しい事は御ざらぬ。余り嬉しさに申(まをす)ことは。足下(こなた)の御用ならば。如何やうの事なりとも仰せられ。命の御用になりとも。立(たち)ませうと申たれば。彼(か)の御若衆の仰せらるゝは。其義ならば別(べち)に望(のぞみ)なことも無いが。鴬の好いがあらば欲(ほし)いと仰せられた程に。それこそ易い事で御ざる。差上(さしあげ)申さうと申て請合(うけあひ)ました。それに付(つき)。今日は鴬を差さうと存じて。如此(このごとく)に。竿迄持(もつ)て罷出て御ざる。
[道行]。如何許(どこもと)になりとも。好い鴬があれかし。差いて進ぜたい事で御ざる。やア。これに鴬が有る。扨も扨も好い鳥かな。彼(あれ)は世間に重宝する。三光(くわう)とやら云ふ鴬(とり)であらう。何でも差いてくれう。何処(どこ)から差さうぞ。茲処(こゝ)から差さうか。此方(こちら)から差さうか。
▲アト「やいやいやい。是は聊爾な事をする。身共が秘蔵の鴬を。何故に差すぞ。
▲シ「此は足下(そなた)が鴬か。
▲ア「中々。身共の鴬ぢや。狼藉な人ぢや。
▲シ「然(さ)れば是には仔細が有る。聞いてたもれ。身共は或(さ)るお若衆に心をかけ。様々(さまざま)と申(まをし)たれば。情(なさけ)有る御方で。お盃を下された。余り嬉しさに。足下(こなた)の御用なら。命なりとも差上(さしあげ)ると申たれば。其義なら。別に望も無い。鴬の好いがあらば欲(ほし)いと仰せらるゝ。それ故如此(このごとく)に差(さし)に出た事ぢや程に。平(ひら)に差(さゝ)してたもれ。
▲ア「尤それは聴(きこ)えたれども。彼(あれ)は某が秘蔵の鴬ぢや。差さす事はならぬ。
▲シ「はて扨それは気の毒ぢや。それならかけろくにしてたもらうか。
▲ア「然(さ)ればかくろくには何をするぞ{*1}。
▲シ「此太刀を得(え)差さずば我御料(わごりよ)にやらうぞ。
▲ア「夫(それ)なら成程差させう。差いて見やれ。
▲シ「心得た。太刀はこれに置(おく)ぞ。扨何方(どれ)から差いて好かろぞ。茲処(こゝ)から差さう。狙ひすまして差いてくれうぞ。南無三宝。差し損なうた。
▲ア「そりや好う差さぬわ。先づ。此太刀は我(おれ)が物ぢや。嬉しや嬉しや。
▲シ「なうなう。余り残(のこり)多いことぢや。今度は此刀をやらう程に。差さしてたもれ
▲ア「又得(え)差しやらねば。其刀を取るぞ。
▲シ「如何にも其通(とほり)ぢや。然(さ)らば差しまするぞ。何でも今度は差いてくれう。黐(もち)を好う延(のば)して置いて差さうぞ。はア。是は如何な事。又差し損なうた。
▲シ「さアこそ。此刀も身共が物ぢや。なうなう。嬉しや嬉しや。思ひもよらぬ仕合せぢや。太刀。刀。鳥も持(もつ)て。急いで帰らう。
▲シ「なう是々。それは余りどうよくぢや。それなら。鴬こそ差し損(そこな)うたれ。歌を一首思ひよつた。此歌を聞いて。其鴬をくれまいか。
▲ア「これは優しい事を仰(おし)やる。如何にも歌によつて。与(や)ることもあらうが。して。其歌は何とでおりやる。
▲シ「ものと。
▲ア「何と。
▲シ「初春の。太刀も刀も鴬も。差さでぞ帰る。もとの住家(すみか)に。とした。鴬をたもれ。
▲ア「尤歌は出来たが。鴬はやることはならぬぞならぬぞ。
▲シ「やいやい。それは余り情(なさけ)無いことぢや。せめて。も一度差さしてくれ。やれどうよく者。やるまいぞやるまいぞ。

底本:『狂言全集 中巻 続狂言記』「巻の一 五 鴬」

校訂者注
 1:底本のまま。