見物左衛門

罷出たる者は。此辺(このあたり)に住居(すまゐ)致す。見物左衛門(けんぶつざゑもん)と申(まをす)者で御ざる。今日は加茂の競馬。深草祭で御ざる。毎年(ねん)見物に参る。今日も参らうと存(ぞんず)る。又某(それがし)一人でも御ざらぬ。爰(こゝ)にぐつろ左衛門殿と申(まをし)て。毎年同道致す人がある。今日(こんにち)も誘ふて参らうと存(ぞんず)る。
[道行]。内に居られたら好う御ざらうが。何方(どれ)へも出ぬ人ぢや。定(さだめ)て内に居らるゝであらう。やアこれぢや。物もう。ぐつろ左(さ)殿。内に御ざるか。何とはや見物に御ざつた。やれやれ。ぐつろ左殿と同道せねば。身共の慰(なぐさみ)がない。やア身共に逢ふて笠を脱(と)らせらるゝは誰様(どなた)ぢや。やはりめせ。足下(こなた)は祭は見物なされぬか。何ぢや刀が無い。なくば大事か。身共はこれ。持たねばさしませぬわ。扨祭の刻限は何時(なんどき)で御ざる。何と巳午の刻ぢや。ゑい身共は一刻もニ刻も早う出た。とてもの事に。九條の古御所を見物してかへらう。御馬屋を見やうか。ゑい。これが御馬屋ぢや。扨も扨も見事なことかな。姫栗毛。額白(ひたひしろ)。黒毛。白毛。彼(あれ)からこれへ。扨も扨も。これは十二因縁の心を以て立(たて)させられた。扨御所を見物致さう。はアこれに八景の押絵がある。洞庭の秋の月。遠浦(ゑんぽ)の帰帆(きはん)。遠寺(ゑんじ)の晩鐘。平砂(へいさ)の落雁。瀟湘(せうじやう)の夜の雨。寄する波に音なき夜の泊り。扨も扨も見事な。これに掛物がある。何ぢや。毘首(びしゆ)が達磨。東坡が竹。牧渓(もつけい)和尚の墨絵の観音。三幅一対。扨も扨も。見事見事。畳は皆雲繝縁(うんけいべり)に高麗縁(かうらいべり)。彼(あれ)からこれまで敷(しき)つめられた。柱は黒塗柱に。蒔絵を書かせられたわ。申さうやうもない事ぢや。何と云ふ馬子(うまご)達。具足がかけるといふか。ゑい。身共はそれこそは見に来たれ。はア。扨も扨ものつたりのつたり。先なは乗人(のりて)と見えた。彼(あれ)は誰で御ざる。何と梅の木はらのすい右衛門殿。其後(あと)なは誰で御ざる。何ぢや柿の本しぶ四郎左衛門。扨も扨も。くひしばつて乗られたが。落(おち)られずばよからうが。ありやありやありや。ありやこそ。云ふ言葉の下から落(おち)られた。扨も扨もをかしい事ぢや。何ぢや。其方(そなた)は。身共が笑(わらひ)が苦になるか。何とおしやる。打(ぶ)たれうとおいやるか。其方(そなた)に疵はつけまい。身共は町で隠(かくれ)もない大悪戯者(おほいたづらもの)ぢや。おかまやるな。扨も扨も。あれあれ。したゝか腰を打たれたやらして。ちんがり。ちんがりちんがりちんがり。扨も扨も。可笑い事ぢや。やア。彼(あ)の大勢人の寄つて居るは。何事で御ざるぞ。やア子供が角力をとる。ゑい。身共は。小さい時から角力が好(すき)ぢや。行(い)て見物致さう。はア。これはどうも這入られまいか。先(まづ)此笠を破つては女共が叱るであらう。先(まづ)これをかうして。少(ちと)御免なされませう。これこれ此処な人。草履の後(あと)を蹈(ふむ)に依つて。先へ行かれぬ。南無三宝。身柱(ちりけ)の灸(やいと)をむいてのけた。はアはア。痛や痛や。先(まづ)這入(はいつ)た。これ行司。腰が高い。下に御ざれ。何と云ふ某(それがし)を暴人(あばれもの)と云ふか。やア何と云ふ。角力の作法を知らずば関(かま)ふなといふか。身共が知るまいと思ふか。総じて角力は。四十八手とは云へども。砕けば八十八手も。百手にもとる。鴨のいれ首水車(みづぐるま)。反返(そりかへ)り。腕投(かひなゝげ)。あふりがけ。河津がけ。此様な手を知つて居る。何と夫(それ)程ならば出てとれと云ふか。身共ぢやと云ふてとりかねうか。何と小言を云ふたらば飛礫(つぶて)をうたう。其方(そち)がうつたらば此方(このはう)からも参らせうまでよ。あいたあいた。これは堪忍がならぬ。やい其処なかきの帷子(かたびら)。かきの鉢巻。汝(おのれ)見知つたぞ。やれ子供もかゝつてくれ。ゑい。とうとうとう。南無角力御退散。又明年参らう。

底本:『狂言全集 中巻 続狂言記』「巻の二 五 見物左衛門」