土産の鏡
▲シテ「これは越後の国。松の山家(やまが)の者で御ざる。某(それがし)訴訟の事あつて。永々在京致いて御ざる。此度訴訟相叶ひ{*1}。満足仕(つかまつゝ)た。急いで国へ罷下り。女子共(めこども)に喜ばせうと存(ぞんず)る。誠に国許(もと)を出る時は。都へさへ上りたらば別義はあるまい。五日(か)か十日の内には埒も明かうやうにも存(ぞんじ)て御ざるが。思ひの外逗留致して御ざる。去(さり)ながら。内(ない)々私の何とぞと存(ぞんじ)たることも首尾致し。此様な嬉しい事は無い。夫(それ)に付(つい)て。国許へ何ぞ土産を調(とゝのへ)て。一門の者共へ取らせたう存(ぞんじ)たれども。永々の在京なれば。左様な事も思ひながらなりませなんだ。去ながら女共の方(かた)へは。珍しき物を調(とゝのへ)て御ざる。則(すなはち)この鏡と申(まをす)物で御ざる。これは大事の物で。昔は容易(たやす)く人間の持つ物ではなかつたと申す。左様にあればこそ。我等の国許などでは。鏡と申(まをす)物を持(もつ)ことはおいて。見たことも御ざない。此度某も在京のうちに。此鏡の仔細を懇(ねんごろ)に承りて御ざる。そのかみ人王(にんのう)十一代垂仁天皇の皇女。倭姫の尊(みこと)。天照大神(てんせうだいじん)より御仁恵を頂き。日本を回国あつて。われ此所(このところ)をば五十六億七千万歳迄。国土安穏の治め玉はうずるとあつて。其しるしに御しんけいを治め玉ひ。代(よ)々御門(みかど)に御座(ざ)あり。三種の神器のうち内侍所と申(まをす)は。則(すなはち)其の時の鏡の由を申さるに依つて。昔は御神物(しんぶつ)と申(まをし)て。神々の御宝物(おたからもの)として。人間などの持(もつ)物ではなかつたといふが。今程は人間の重宝(ちやうはう)となり。上(うへ)々は申(まをす)に及ばず。我等如きの者まで此をたしなむ事で御ざる。誠に珍しき物なれば。女共に取らせうと存(ぞんじ)て。漸(やうやく)求めて御ざる。只仮初(かりそめ)の様なれども。鏡の徳に依つて我(わが)身の善悪を知ることもある。其仔細は。先(まづ)世上の有様を見るに。高きも賤(いやし)きも此世の利慾名聞に溺(おぼれ)て。死の近付(ちかづい)たも知らず。我身の賤(いやし)きをも忘れ。老(おい)衰へたるを知らず。徒(いたづら)に月日を送る。何となく鏡を見れば。はや何時(いつ)となく衰へ。額に四海の波をたて。白髪(はくはつ)たる有様を見て。心ある人は打驚(うちおどろき)て。此世の善悪に就(つい)て心を尽さんより。来世の道こそ大事とて。頓(やがて)仏道に入(いり)て。後世菩提を思ひよつて。後の世を願ひ生死無常を知(しら)するも。鏡の威徳なり。或時は鏡に向(むか)ひ髭を剃り鬢をなで。衣紋引(ひき)つくろひ。見苦しき有様をわれと知らすること。是第一の重宝なり。又女は鏡に対(むか)ひ。顔に白粉(おしろい)を塗り。紅。鉄漿(かね)をつけてわれと形を飾ること。高きも賤きも遍(あまね)くすることなり。扨又我(わが)心に嬉しきことあつて。罪も報(むくひ)もなく笑ふ処は。我身ながら賑(にぎや)かとも。うつゝなき。(此処にて鏡に対ひ笑ふべし)又心に腹の立(たつ)ことあつて。気色を変へ。われとほむらをもやす。(此処にて怒る顔する)扨も扨もおそろしいことかな。我身でさへ。すさまじく思ふ。斯様(かやう)の事を思へば。人間は少々腹の立(たつ)こともあるとまゝよ。堪忍をせうことぢや。人に讒言を云へば人も腹を立て。われも腹を立つ。慳貪邪険にして。仏になり難しとあれば。仮初にも悪(あし)き心を持(もつ)ではない。誠に鏡の徳に依つて。我身の善悪を知ること。是第二の重宝なり。急ぐ程にこれはゝや国許に着(つい)た。女共を喚(よ)び出さう。女共は内に居るか。某が上方(かみがた)より今戻つた。早う出さしめ。
▲女「此(これ)の人の声がするが。お戻りやつたかしらぬ。
▲シ「女共。今戻つたわ。
▲女「やれやれ嬉しや。此間は久しく便(たより)も無かつたに依つて。殊の外気遣(きづかひ)をしたが。先(まづ)息災で下らせられて。目出度う御ざる。
▲シ「中々。思ひの外埒が明(あき)かねて。永々在京した。さりながら。内々の訴訟は思ひのまゝに叶ふて下つた程に。喜ばしませ。
▲女「夫(それ)は目出度(めでたい)ことで御ざる。如何程(いかほど)暇がいつても。訴訟の事が叶はねば迷惑ぢやが。思ひの儘に叶ふてお下りで目出度う御ざる。
▲シ「夫に付(つい)て。適(たまたま)都へ上つたことぢや程に。何ぞ土産物を調(とゝのへ)て下りたう思ふたれども。永々の在京なれば。左様の物をも調(とゝの)ふることもならなんだ。
▲女「何が土産がいりませうぞ。先(まづ)足下(こなた)の息災で。訴訟が思ひのまゝ叶ひ。これ程の土産が御ざらうか。
▲シ「去(さり)ながら。其方(そなた)には珍しき物を求めて下つておりやる。
▲女「それは嬉しい。何と云ふ物で御ざるぞ。
▲シ「其事ぢや。鏡と云ふ物ぢやが。これは昔は神々の宝物で。人間の持(もつ)物では無かつたけれども。今は人間の嗜(たしな)み道具となつて。都では如何様の賤き者迄も之を持つ。其仔細は。先(まづ)此鏡といふ物を我前に立(たて)て見れば。我(わが)形の善悪(よしあし)が目の前に映りて見ゆる。然(さ)るによつて。或(あるひ)は女の顔に白粉(おしろい)を塗り。紅。鉄漿(かね)をつけて形を飾る。我御料(わごりよ)達は見たこともあるまいと思ふて求めて来た。これ見さしませ。
▲女「それは美(うつくし)う御ざる。其様な重宝な物は終(つひ)に聞(きい)た事も御ざらぬ。先(まづ)これへ見させられい。(こゝにて女鏡を見る)是は如何な事。其方(そなた)は都へ上つて永々の在京のうち。女を置いて慰まれたと見えた。
▲シ「それは何故に。
▲女「いやさうあればこそ。此鏡とやらんいふ物に。女の影がある。是は其方の都で置かれた女ぢやと見えたが。其執心が此処までついて来てあると見えた。なう腹立(はらたち)や。彼奴(あいつ)を何とせう知らぬ。
▲シ「言語道断のことを云ふ奴ぢや。其女の影は汝(おのれ)が影が見ゆる。それを知らぬか。之を見よ。身共が対(むか)へば某が影が映る。扇を移せば扇の影。是程目の前に映す物の影が見ゆる。それが何が腹の立(たつ)ことぢや。
▲女「いやいや左様ではない。あれ見さしませ。妾(わらは)が腹を立(たつ)れば。彼(あ)の女奴(め)が怖(おそろし)い面(つら)をして妾に向(むか)ひ居る。汝(おのれ)何としてくれう。能(よ)う妾が男を寐取つて。これまで後を追(おふ)てうせたなア。見ればなかなか腹が立つ。打(うち)割つたがよい。(こゝにて鏡。舞台の板へ投(なげ)てうち割る態(てい)。表を下に投(なげ)て割れたと云ふなり。)
▲シ「汝(おのれ)は憎い奴ぢや。はるばる都より求めて来た物を。其如くに打(うち)割り居つた。思へば憎い奴ぢや。目に物を見せう。
▲女「おぬしが分では。妾に物を見することはなるまい。
▲シ「何のならぬといふことがあるものか。(こゝにて扇にて二つ三つ打つ。女常の通り腹を立(たて)る。)
▲女「これは如何なこと。思ふまゝ打擲をした。堪忍をせぬ。(シテに取(とり)つく。色々に組合ふて。男を打(うち)倒して{*2}。)今こそおれが本望ぢや。(といふて楽屋へ入る。)
▲シテ「憎い奴。やるまいぞやるまいぞ。
此狂言殊の外六ヶ敷なり。尤これも四十よりうちにては大方せぬ狂言なり。よくよく分別して為(す)べし。女悪(あし)ければ不出来おほし。右出立(でたち)。つき素袍。下。狂言袴。裾括り。寂(さ)びたるちひさ刀よし。
校訂者注
1:底本は「相叶ひ 満足仕た」。
2:底本は「男を折(うち)倒して」。
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