金岡

▲シテ男(次第出る)「恋路に迷ふうき身のうへ。恋路に迷ふうき身のうへ。命や限(かぎり)なるらん。
[詞]これは天下に隠(かくれ)も無い。金岡(かなをか)と申(まをす)絵書きで御ざる。某(それがし)一年(ひとゝせ)。禁中へ絵を書(かき)に参つたれば。内裏上臈衆の。如何にも美(うつくし)う出立(いでたゝ)せられ。数多(あまた)御ざつた中にも。二十歳(はたち)斗(ばかり)なる上臈の。持(もた)せられた扇を差出(さしいだ)させられて。何ぞ一筆(ひつ)と仰せられた程に。戯画(ざれゑ)をさつと書いて進じたれば{*1}。扨々思ふたに異(かは)つて。見事やと仰せられて。奥へ御ざるを立寄(たちよつ)て。ふつゝりと抓(つめ)つたれば。立戻(たちもどつ)て。あゝうつゝなやと仰せられ。莞爾(にこり)と笑はせられたお顔の俤(おもかげ)が身にしみて。心うつゝなくなりて候よ。なう。いつの春か思ひそめて。忘られぬ花の縁(えん)や花の縁。あゝ扨。嬋娟(せんけん)の黛(まゆずみ)。丹花の唇。柔和の姿。太液(たいえき)の芙蓉の。雨を帯(おび)たる装(よそほひ)と申(まをす)は。彼(かの)姿のことかのう。恋はうき名の立(たつ)のみか。漸(やう)々正躰(たい)も無う迷ひ惚れたよ。何時の世にかは君を忘れじ。斯様(かやう)に存ずれども。再(ふたゝび)逢ひも見もせで。彼(あ)のおそろしき朽木の梅さへ。八重に咲くものを。咲くものを恋よ恋。我中空(なかぞら)になすな恋。恋風が来ては。たもとにかいもとれてのう。おう。袖のおんもさ(重さ)よ。こひかぜは。おもいもんのかの{*2}。(舞台寐る)
▲アト女「これは金岡と申(まをす)者の妻で御ざる。聞(きけ)ばこれのは。恋をして。洛中を。今日は歩(ありか)るゝと申す。沙汰のかぎりで御ざる。参つて見て。連(つれ)て帰らうと存ずる。扨々腹の立(たつ)と云ひ。外聞の悪い事で御ざる。なう。是は如何な事。かなわか(金岡)殿かなわか殿。
▲シテ「や。わごれ(我御料(わごりよ))は何しに来た。
▲女「何しに来たと云ふことが有(ある)もので御ざるか。是は何とした事で御ざる。宿へ帰らせられい。
▲シテ「いや。某のことは。な。構はしますな。其方(そなた)は宿へお帰りやれ。
▲女「なうこなたは。恋をなさるゝと申(まをす)が。誠で御ざるか。
▲シテ「いやいや。むざとしたことを云はします。此中(このぢう)気をつめて。絵を書いた処で。気が詰(つま)つたに依つて。気晴しに斯様(かやう)に歩(あり)く。
▲女「いやいやこなたの態(てい)は。左様には見えませぬ。まつ直(すぐ)に仰せられい。なることならば。妾(わらは)が共々に肝をいつて。叶へて進ぜう。
▲シテ「扨は其方(そなた)も。左様に思はしますか。
▲女「中々。成る事ならば叶へて進ぜう。
▲シテ「それならば。恥かしけれど語らう。そりや過日(いつぞや)。禁中へ絵を書きに行(い)た事があつたわ。
▲女「中々。
▲シテ「その時。如何にも美しい上臈の。年の比(ころ)二十歳斗なるが。某の絵を書くを御覧(らう)じられて。一筆(ふで)と仰せられた程に。戯画を書いて進じたれば。思ふたよりも見事なと仰せられて。奥へ御ざる。しつくりと手を締(しめ)てあれば。うつゝなと仰せられたお顔が。あゝ。忘れられぬ。
▲女「さればこそ。左様のことであらうと思ふた。乍去(さりながら)。夫(それ)は雲の上人(うへひと)ぢや程に。思ひ止(とま)つて。宿へ帰らせられい。
▲シテ「いやいや。如何に止らうと思ふても。其方(そなた)が顔を見ては居られまい。
▲女「なう軽忽(けふこつ)や。夫(それ)は十二一重(へ)で身を纏ひ。長髢(ながかもじ)を下(さげ)ておぢやるに依(よつ)て美(うつくし)い。妾(わらは)ぢやといふても。十二一重で身を飾つたらば。其上臈衆にも。負(まく)ることではおぢやるまい。
▲シテ「いやいや。其様な事を云はしましそ。それは思ひ止(とま)ることはならぬ程に。帰らしませ。
▲女「なうそれならば。其方(そなた)は天下に隠れも無い金岡殿ぢや程に。其恋しいとおしやる上臈の顔を。妾が顔をくまどつて御らう(覧)ぜられい。
▲シテ「まことにこれはおもしろい事を思ひ出した。それならば。随分顔を彩(ゑどつ)て見て。似たれば。其方(そなた)も仕合せ。身共も果報ぢや。然(さ)らば宿へ帰らう。(と云ふて二人ながら一遍回り。女を大臣柱(だいじんはしら)へなほし。紅皿と。白粉(おしろい)皿として。柱の少(ちと)先に置(おき)て。筆二本持つ。但し内一つ小さき刷毛(はけ)にても。)
[舞]いでいでさらばゑどらん。(かけり。仕舞有(あり)て口伝あり。)いでいでさらばゑどらんとて。紅やおしろいすりぬれたれど。下地は黒き山がらす。もしもや似ると又たちかへり。丹花(だんくわ)のくちびる。柔和のすがたに。何とゑどれど此面(つら)が。恋しき人の貌(かほ)には似(に)いで。狐の化(ばけ)たに異(こと)ならず。(と。女を突倒(つきたふ)し逃(にげ)こむ)。
▲女「わ男(をとこ)。やるまいぞやるまいぞ。

底本:『狂言全集 中巻 続狂言記』「巻の三 七 金岡
校訂者注
 1:底本は「進じたれは」。
 2:底本のまま。