桜諍

▲アト主「これは此辺(このあたり)の者で御ざる。此頃は何方(いづかた)も花の盛(さかり)ぢやと申(まをす)程に。花見に参りたう存(ぞんず)れども。暇が無さに。参ることも得(え)致さぬ。最早(もはや)暇になつて御ざる程に。今日は花見に参らうと存(ぞんず)る。先(まづ)太郎冠者(くわじや)を喚(よ)び出し。申付(まをしつけ)う。やいやい太郎冠者。在るか。
▲シテ太郎冠者「はア。
▲アト「居たか。
▲シテ「お前に居ります。
▲アト「汝を喚(よ)び出すこと。別の事では無い。頃日(このごろ)は方(はう)々の花盛(さかり)ぢやといへども。暇が無さに。花見に行くこともならなんだ。最早暇になつた程に。花見に出(いで)うと思ふが。何とあらうぞ。
▲シテ「これは珍しいことを仰せられます。頃日(このごろ)は桜の盛(さかり)ぢやと申(まをす)程に。桜を御覧ぜられうとあれば尤で御ざるが。珍しからぬ花を御覧ぜられて。何にさせらるゝ。
▲アト「いや汝(おのれ)は何事を云ふ。桜も花も同じ事ぢや。
▲シ「是は頼うだ人共覚えぬことを仰せらるゝ。左様に仰せられたらば。人中(ひとなか)で恥をかゝせられう。身共は苦しう御ざらぬが。
▲ア「して汝が其様に云ふは。仔細が有るか。
▲シ「中々仔細こそ御ざれ。花が見させられたくば。私がはなを見させられ。他所(よそ)へ御ざる迄も御ざらぬ。
▲ア「いや。汝(おのれ)は言語道断のことを云ひ居る。汝が面(つら)なは鼻と云ふ。花と云ふは別ぢや。
▲シ「さうでは御ざらぬ。歌などにも。桜とは読まれたれども。花とは読まれませぬ。
▲ア「なかなかても無いことを云ひ居る。其歌を読うで聞かせい。
▲シ「読うで聞かせたらば。肝を潰させられう。
▲ア「急いで読め。 
▲シ「心得ました。桜ちる。木(こ)の下蔭は。寒からで。空に知られぬ。雪ぞ降りける。これは何と。
▲ア「此方(こち)にも花と云ふ歌が有る。
▲シ「さらば読うで聞かせられい。
▲ア「行(ゆき)くれて。この下蔭を宿とせば。花や今宵の。主(あるじ)ならまし。
▲シ「此方(このはう)にもまだ御ざる。山桜。霞の間より。ほのかにも。見えし人こそ。恋しかりけれ。
▲ア「それなら此方(こち)にも有る。花の色は。うつりにけりな。いたづらに。我身よにふる。ながめせしまに{*1}。
▲シ「それならば此方(こなた)には謡が御ざる。
▲ア「唄へ。聞かう。
▲シ[謡]「桜かざしの袖ふれて。
▲ア「一段の謡唄ふ。致しやうが御ざる。やい。太郎冠者。
[謡]はな見ぐるまくるゝより。月の花よまたうよまたうよ。
▲シ「はア。これでつまりました。
▲ア「総別(そうべつ)何も知り居らいで。むざとしたことを云ひ居つて。某(それがし)と競(せり)合ひ居る。彼方(あつち)へうせい。
▲シ「はア。
▲ア「ゑい。
▲シ「はア。

底本:『狂言全集 中巻 続狂言記』「巻の四 二 桜諍
校訂者注
 1:底本は「なかめせしまに」。