柑子俵

▲シテ「罷出たる者は。辺土に住居(すまゐ)致す者で御ざる。身共は毎年(ねん)在(ざい)々へ柑子(かうじ)を買(かひ)に廻り。商売に致す者で御ざる。やうやう時分になりました程に。買(かひ)に廻らうと存(ぞんず)る。先(まづ)急いで参らう。
[道行]やれやれ当年は。何でも精を出し。金銀を大分儲け。仕合せを致さうと存(ぞんず)る。やア参る程に。何時も柑子を買ふ処はこれで御ざる。案内を乞はう。物も。案内もう。
▲アト「表に案内がある。誰様(どなた)で御ざる。
▲シテ「いや身共でおりやる。
▲ア「やア其方(そなた)は。定(さだめ)て時分ぢやと思ふて。柑子を買(かひ)にお出やつたか。
▲シ「中々其通(とほり)ぢや。売(うつ)てたもれ。
▲ア「其方(そなた)が見やう(見えやう)と思ふて。待(まつ)て居た{*1}。
▲シ「それは過分な。俵に入(いれ)て置いてたもれ。明日(あす)取(とり)に参らう。
▲ア「いかにも取(とり)におりやれ。好うおりやつた。
▲シ「はア。
▲子「何と云ふぞ。身共の親が。常例(いつも)の柑子買ひが登つたに依(よつ)て。柑子を皆売(うつ)て。俵に入(いれ)て置かれたといふが。それは残(のこり)多いことぢや。木にある時に。思ふまゝ取(とつ)て食はうと思ふたが。残(のこり)多い。乍去(さりながら)。何処に在るぞ。見て一つ二つ盗(ぬす)うで食(たべ)ませう。何処許(もと)に置かれた知らぬ。さればこそ。これに在るわ。先(まづ)此俵を明(あけ)て取(とり)出さう。さらば食ふて見やう。扨も扨も旨いことかな。一つでは堪忍がならぬ。も一つ食はう。是は是は。取分(とりわ)け今年の柑子は旨い。まだ食へまだ食へ。是は食へば食ふ程旨い。是は如何な事。一つ二つと思ふて。皆食(たべ)た。何とせうぞ。親が聞(きい)たら好いとは云ふまい。はて気の毒なことした。やア思ひ出した。彼(あ)の柑子買(かひ)は。とつと律気(りちぎ)な。臆病者で御ざる。これに幸(さいはひ)ふりうの面が有る。此を被(き)て俵の中へ這入り。騙して帰らうと存(ぞんず)る。先(まづ)面を被(き)やう。さらば俵へ這入らう。一段と好い。
▲シ「昨日常例(いつも)柑子買ふ所に約束致し。俵に入(いれ)てたもれと申(まをし)た。今日取(とり)に参らうと存(ぞんず)る。参る程にこれぢや。物もう。亭主御ざるか。
▲ア「なかなかこれに居ます。
▲シ「何と柑子を取(とつ)て。俵に入(いれ)て置いてたもつたか。 
▲ア「中々これに在る。取(とつ)て行かしめ。
▲シ「辱(かたじけ)なう御ざる。代物(だいもつ)は追付(おつゝけ)持(もた)して参らう。さらば此を負ふて参らう。手を添(そへ)てたもれ。
▲ア「心得た。能(よ)いか。
▲シ「中々能いぞ。さらば斯(か)う参る。
▲二人「さらばさらばさらば。
▲シ「なうなう嬉しや嬉しや。まんまと柑子は買ひ済ました。急いで帰らう。やアこれは何かと致し。暇が入(い)つて。早(はや)暮方(くれがた)になつた。何処が何処やら道も確(しか)と見えぬ。連(つれ)も無し。何とせうぞ。これに道が二筋有る。此山中で日は暮れ。問ふ人も無い。何共迷惑ぢや。右へ行かうか。左へ行かうか。はて気の毒な。
▲子「右へ行け。
▲シ「はア。是は如何な事。何方(どれ)からやら物言ふた。此夜中に。近辺(あたり)に人は無し。何者ぢや。狐か知らぬ。心許(もと)無いことぢや。早う参りたいが。迷ふてはなるまい。何方(どち)へ行かう。右へか。左へか。何処へ行かうぞ。
▲子「こりやこりや。此方(こち)へ行け此方へ行け。
▲シ「あゝ悲しや。柑子が手を出した。扨は人になつたか。捨(すて)て逃(にげ)う。
▲子「いで食(くら)はう食(くら)はう。
▲シ「あゝ悲しや悲しや。許してたもれ。柑子が鬼になつた。免(ゆる)さしやれ。命を助(たすけ)てたもれ。
▲子「いで食(くら)はう食(くら)はう。何方(どち)へうせるぞ。やるまいぞやるまいぞ。一口にせうぞせうぞ。
▲シ「あゝ悲しや。許せ許せ許せ。

底本:『狂言全集 中巻 続狂言記』「巻の四 四 柑子俵」
校訂者注
 1:底本は「待(もつ)て居た」。