禁野

▲初アト「是へ出たる者は。此在所禁野(きんや)の里に住居(すまゐ)する者で御ざる。此所(このところ)は。昔より殺生固く禁制の処なるに。何者やら毎日毎日参つて殺生致す{*1}。見れば手者(てしや)と見えて。弓矢を持(もつ)て居ます。捕(とら)へて戒(いましめ)に成敗致さうと存(ぞんず)れども。身共一人(り)では心許(もと)無う御ざる。爰(こゝ)に某(それがし)が懇(ねんごろ)致す人が有る。之を語らうて。今日は捕(とら)へ。致しやうが御ざる。先(まづ)彼(あれ)へ参り相談致さう。
[道行]。やれやれ憎い事で御ざる。何でも今日は捕(とら)へてやらうと存ずる。参る程にこれぢや。物もう。案内もう。
▲後アト「表に案内がある。案内とは誰様(どなた)で御ざる。やア。これはこれは足下(こなた)か。能(よ)うこそ御出なされた。何と思召(おぼしめし)御出ぞ。
▲初アト「さればされば。只今参ること別の事でも御ざらぬ。此所(このところ)へ何者やら。毎日殺生に出雉子(きじ)を獲(と)る。憎いことぢや。捕(とら)へうと存ずれど。見れば手者(てしや)と見えて。弓矢を持(もつ)て居ます。身共一人(り)では心許無う御ざる。足下(こなた)談(かた)らひ。何とぞして弓矢を取(とつ)たらば。足下(こなた)其処へ好い時分に出て。扱人(あつかひて)になつて。挨拶なされ。身共は弓矢で射殺さうと申さう。足下(こなた)中分(ちゆうぶん)に入(いつ)て。刀。脇差。衣裳も皆剥取(はぎと)り。赤裸々(まるはだか)にしていなしませう。
▲後アト「夫(それ)は一段好う御ざらう。それならば剥(はい)だものは。両人して配分致さう。
▲初アト「なかなか其通(とほり)で御ざる。いざ参らうか。
▲後アト{*2}「中々参らう。
▲初アト「さアさア。御ざれ御ざれ。やア何彼(なにか)と云ふうちにこれぢや。先(まづ)これへ寄つて居て。待(まち)ませう。これへ御ざれ。
▲後アト「心得ました。
▲シテ「大果報の大名。扨世のなかに慰(なぐさみ)は多けれど。殺生程面白いものは無い。夫故毎日毎日。此河内の禁野へ殺生に参る。今日も参らう。何でも今日は。鹿(しゝ)。猿。鳥類でも。射て遊ばうと存ずる。
▲初ア「されば彼(あれ)ぢや。言葉をかけ。致しやうが有る。足下(こなた)は好い時分に出させられ。
▲後ア「心得ました。
▲初ア「申(まをし)々。足下(こなた)には見ますれば。毎日毎日殺生に御出なされます。好い御慰(なぐさみ)で御ざらう。
▲シテ「さればされば。好い慰(なぐさみ)でおりやる。我御料(わごれう)も殺生が好(すき)か。
▲初ア「中々好きで御ざる。何と今日は鳥。獣(けだもの)も出ませぬ。
▲シ「其通りぢや。何でも出たらば射て見せうものを。
▲初ア「申(まをし)々。此河内の国禁野の里は。昔より殺生禁制の所と申(まをし)ますが。これには仔細が御ざるか。
▲シ「なかなか仔細が有る。知らずば語つて聞かさう。能(よ)う聞かしませ。
▲初ア「辱(かたじけ)なう御ざる。承りませう。
▲シ「扨も推古天皇の御時。此野にて御狩(みかり)有りしに。諸鳥迷惑して血の涙を流し。津の国玉造(たまつくり)天王寺さして逃(にげ)行く。太子不便(ふびん)に思召(おぼしめし)。王位に御意見あつて。それより此野は禁野となる。其後(のち)三足(そく)の雉子(きじ)出生(しゆつしやう)す。化鳥(けてう)なれば退治あるべしとて。御鷹を合(あは)され候へ共。此雉(きじ)の尾刃(やいば)の釼(つるぎ)なれば。御鷹を刺落(さしおと)し申(まをす)間。鉄(くろがね)にて鷹を作り。平常(いつも)の如く合(あは)せければ。彼(か)の雉真の鷹と心得。刺せども刺せども刺されず候処に。真の鷹を助鷹(すけたか)にかけとらせ。其雉を神に祝ひ。雉の領とて今に有る。又歌にも。物云へば。父はながらの。人柱。なかずば雉も。射られまじきを。と云ふ歌もある。なんぼう仔細のある事でおりやる。されども身共はさる仔細有(あつ)て。殺生しても苦しうおりない。
▲初ア「扨も扨も仔細の有ることで御ざる。やア今日(こんにち)は。雉も歌の心を存じてやら出ませぬ。あれあれ。向(むかふ)な薄の中に雉が居ます。
▲シ「どれどれ。何処に居るぞ見えぬ。
▲初ア「あれあれ立(たち)ますわ。早う射させられ射させられ。
▲シ「見えぬ。何処に居るぞ。
▲初ア「あれあれ尾を出しました。其弓此方(こち)へおこさせられ。身共射ませう。
▲シ「これこれ渡すぞ。射やれ。
▲初ア「さアしてやつた。汝(おのれ)憎い奴の。雉は嘘ぢや。汝(おのれ)をたつた一矢(や)で射てやらうぞ。
▲シ「やれやれ危険(あぶない)危険(あぶない)。出合へ出合へ。
▲初ア「何の危険(あぶない)。殺生禁制の処へ毎日来て殺生する。雉を射たが好いか。此がよいか。射殺(いころし)て遣らうぞ。
▲シ「やれ許せ許せ危険(あぶない)。出合へ出合へ。
▲後ア「やいやい。これは先(まづ)何事ぢや何事ぢや。
▲初ア「やア好い処へ御出やつた。あれに居る者が。毎日此処(このところ)へ殺生に来る。夫故射殺(いころし)て遣らうと云ふことぢや。命が惜(をし)くば。其刀。上下(かみしも)。小袖も。皆脱いでおこせ{*3}。
▲シ「諸侍の一腰が遣らるゝものか。
▲初ア「おのれおこさずば射殺(いころす)ぞ。おこさぬかおこさぬか。
▲後ア「やれ命には代(かへ)られまい。渡せ渡せ。
▲シ「あら是非に及ばぬ。さア刀を遣るぞ。取れ。
▲後ア「どりやどりや。身共が取(とつ)て遣らう。
▲初ア「まだ其上下(かみしも)。小袖も脱いでおこせ。
▲シ「いやいや此はならぬ。
▲初ア「おこさぬと射殺(いころす)ぞ射殺(いころす)ぞ。
▲シ「あゝ危険(あぶない)。命助(たすけ)てくれ。助けてくれ。
▲後ア「夫ならばよう渡せ渡せ{*4}。
▲シ「扨も扨も迷惑なことかな。脱(ぬい)で遣らうまで。さア取れ。
▲後ア「殺されうよりは渡したがよいわ。此方(こち)へおこせ。さアさア皆剥取(はぎとつ)たわ。
▲初ア「やいやい汝(おのれ)助けたけれども。昔より殺生の禁制な処で諸鳥を取(とつ)た。助くることはならぬ。如何(どう)でも一矢(や)で射殺(いころす)ぞ射殺(いころす)ぞ。
▲シ「あゝ悲しや。やれやれ助(たすけ)てくれい。許せ許せ。
▲二人「何方(どち)へ逃(にぐ)る。やらぬぞ。やることでは無いぞ。やるまいぞやるまいぞやるまいぞ。

底本:『狂言全集 中巻 続狂言記』「巻の四 七 禁野
校訂者注
 1:底本は「参つで殺生」。
 2:底本は「▲「後アト「」。
 3:底本は「皆脱いておこせ」。
 4:底本のまま。