猿替勾当

▲シテ「これは此辺(このあたり)に住居(すまゐ)致す勾当で御ざる。頃日(このごろ)は西山東山の花が盛(さかり)ぢやと申(まをす)。夫(それ)に付(つき)。女共が花見に参りたいと云ふて。毎年(ねん)強請(せが)めども。身共は目が見えず。花は得(え)見ませぬに依(よつ)て参りも致さねば。殊の外女共が腹を立(たて)る程に。当年は女共を連(つれ)て某(それがし)も参り。目で見ることはならぬ程に。花を嗅(かい)でなりとも慰まうと存ずる。なうなう女共居さしますか。
▲女「妾(わらは)を喚(よ)ばせらるは何事で御ざる。
▲シテ「いや其方(そなた)を喚ぶは別の事で無い。頃日(このごろ)は西山東山の花が盛(さかり)ぢやと申(まをす)。其方(そなた)の何時も。花見に行(ゆき)たい行(ゆき)たいと云(いふ)て強請(せが)まします程に。今年は身共も同道して。花見に参らう程に。我御料(わごれう)は花を見やれ。身共は花を嗅(かい)でなりとも慰まうわ。 
▲女「なうなう。それは嬉しう御ざる。好い慰(なぐさみ)で御ざらう。乍去(さりながら)。花は見るとこそ申せ。嗅(かぐ)と云ふことは御ざるまいぞ。
▲シ「いやいやさうおしやるな。嗅(かぐ)と云ふても苦しう無い歌がおりやる。能(よ)う聞(きか)しませ。此(この)はるは。知るも知らぬも。玉ぼこの。行(ゆき)かう人の。花の香ぞする。と云ふ時は。嗅(かぐ)と云ふても。少(ちつと)も苦しう無い。
▲女「尤で御ざる。さアさア御ざれ御ざれ。
▲シ「手を引(ひい)てたもれ。
▲女「心得ました。
▲シ「なうなう。其方(そなた)も身共と。此様に手を引合(ひきあふ)て行(ゆく)は。花を見るよりは。これ程面白いことはおりやらぬ。
▲女「はて扨人が聞(きく)に。むざとした事仰せられそ。
▲シ「花見に行(ゆく)やら。夥(おびたゞし)い人ぢや。
▲女「さうで御ざる。
▲シ「やア。小筒(さゝえ)を用意めさつたか。
▲女「中々。早(はや)申付(まをしつけ)まして。清水の地主(ぢしゆ)へ持(もた)してやりました。
▲シ「夫(それ)は一段ぢや。
▲女「申(まをし)々。何かと云ふうちに。これがはや地主(ぢしゆ)で御ざる。
▲シ「はやこれか。何処ぞ人の無い処に居やう。
▲女「茲処(こゝ)が好う御ざる。これへ御ざれ。此処に見事な花が御ざる。
▲シ「夫なら此処に居やう。其方(そなた)も下に居さしめ。さアさア先(まづ)一つ飲まう。小筒(さゝえ)を出さしめ。
▲女「心得ました。さアさア参れ。
▲シ「さらば飲まう。注(つが)しませ。これこれ一つ有(あり)さうな。
▲女「丁度御ざる。
▲シ「扨も扨も。内で飲(のむ)とは違うて旨いことぢや。さらば我御料(わごりよ)に差さう。
▲女「戴(いたゞき)ます。
▲シ「一つ飲ましませ。わつさりと唄はう。
▲二人「ざゝんざア。浜松の音はざゞんざア。
▲女「さらば之をこなたへ差しませう。
▲シ「好からう。注(つが)しませ。扨も扨も飲(のむ)程旨い。何なりとも唄はう。
▲猿引「これは洛中を廻る猿引で御ざる。今日も旦那まはりを致す。承れば頃日(このごろ)は花盛(ざかり)ぢやと申す。今日は序(ついで)ながら清水へ参り。花を見物して帰らうと存ずる。はやこれが清水地主(ぢしゆ)で御ざる。扨も扨も夥(おびたゞし)い花見かな。やアこれに座頭が女房を連(つれ)て花見に来て居る。扨も扨も好い女ぢや。これこれなうおりやれ。少(ちと)物が問ひたい。
▲女「何事ぞ。妾(わらは)が事で御ざるか。
▲猿引「いかにも其方(そなた)のことぢや。彼(あれ)は我御料(わごりよ)の男か。
▲女「中々妾が幼馴染で御ざる。
▲猿引「扨も扨も其方(そなた)の様な好い器量で。彼(あ)の様な座頭を男に持(もつ)物か。身共が好い所へ肝煎(きもいり)し嫁入(よめいり)させう。おりやれ。
▲女「されば妾も厭でも御ざらねども。彼(あ)の人も幼馴染でいとしう御ざる。
▲シ「女房共女房共。何方(どち)へ行たぞ何方(どち)へ行たぞ。 
▲女「これこれ此処に居ます。
▲シ「我御料(わごりよ)は合点のいかぬ。何処へお行(いき)やつた。
▲女「いや酒を取(とり)に参りました。
▲シ「いやいや合点が行(いか)ぬ。さアさア又酒を飲まう。注(つ)がしませ。
▲女「心得ました。それそれ一つ注(つぎ)ました。参れ。
▲シ「はア。扨も扨も旨いことぢや。さア又差さう。飲ましませ。
▲女「妾も酔(ゑひ)ませうが。夫ならも一つ飲(たべ)ませう。なうなう辺(あたり)に誰も御ざらぬ程に。肴に小舞(こまひ)を一つ舞はせられ。
▲シ「されば其方(そなた)の望(のぞみ)ぢや程に。酒には酔ふ。舞もせうか。
▲女「それは嬉しう御ざる。舞はせられ。
▲シ「何も慰(なぐさみ)ぢや。舞はう。
[謡]。[小舞]。一天四海波を打(うち)をさめたまへば。国もうごかぬあらかねの。[ハル][トルコト]{*1}土のくるまのわれらまで。道[ハル]せばからぬ大君(おほぎみ)の。みかげの国成(なる)をばひとりせかせ玉うな。
▲猿引「是は如何な事。座頭が舞を舞ふ。これこれおりやれおりやれ。ちよつとおりやれ{*2}。
▲女「何で御ざる。
▲猿引「どうでも好い処へ肝煎(きもい)らう程に。身共次第にして。早う抜(ぬけ)ておりやれ。
▲女「妾も嫌でも御ざらぬが。して其参る処は好い処で御ざるか。
▲猿引「成程好い処で。しかも男も好い男でおりやる。
▲女「それなら如何(どう)なりとしませうが。
▲シ「なう女共女共。何方(どち)へ行(いか)しました。女房共女房共。
▲女「いや此処に居ます。扨も扨も今の舞は面白(おもしろい)ことで御ざる。
▲シ「いやいや我御料(わごりよ)はたつゝ(立(たつ)つ)居つして。如何(どう)やら合点が行(いか)ぬ{*3}。よいよい仕様が有る。此帯で繋いで。身共が帯に結付(ゆひつけ)て置かう。
▲女「これは何となさるゝ。
▲シ「これこれ斯(かう)して置けば気遣(きづかひ)が無い。さアさア酒を又飲まう。
▲女「それそれ注(つぎ)ました。最早(もはや)過(すぎ)ませう。
▲猿引「是は如何な事。座頭は賢い者ぢや。繋いで置いた。なうなうおりやれおりやれ。何と腰を教ふるは。繋いであるに依つて。行(ゆか)れぬと云ふことか。尤ぢや。何とせうぞ。思ひ出した仕様が有る。此猿と繋ぎ代(かへ)て置かう。足音を聞きとられてはなるまい。そつと繋ぎ代て置かう。さアすました。まんまと繋ぎ代た。これこれ。其方(そなた)を好い処へ肝煎らうと云ふは詐(いつはり)。身共が所へ連(つれ)て行(い)て。千年も万年も添(そ)はうぞ。此処へ負はれさしめ。なうなう嬉しや。急いで帰らう。
▲シ「さアさア。もそつと酒を飲まう。注(つが)しめ。なう女共。何故に物をおしやらぬ。繋いで置いたが夫程腹が立(たつ)か。先(まづ)此方(こち)へ寄らしませ。
▲猿「きやアきやアきやア。
▲シ「なう悲しや。女共。これは何故に掻(かき)付く。如何(どう)したことぞ。
▲猿「きやアきやアきやア。
▲シ「あゝ悲しや。女房共が猿になつて毛が生えた。何とせうぞ。
▲猿「きやアきやアきやア。
▲シ「あゝ悲しや。許せ許せ許せ。

底本:『狂言全集 中巻 続狂言記』「巻の四 八 猿替勾当
校訂者注
 1:底本「[トルコト]」の「コト」は合字。
 2:底本に句点はない。
 3:底本は「如何(とう)やら」。