牛馬

▲アト目代「罷出たる者は。此辺(このあたり)の者で御ざる。此所(このところ)富貴(ふつき)なるに付(つき)。牛馬(ぎうば)の新市を御立(たて)なさる。早々罷出。一の杭に繋いだ者を。末代迄市の司に仰せ付(つけ)られうとの御事で御ざる。則(すなはち)某(それがし)に目代を仰付(おほせつけ)られた。先(まづ)高札(たかふだ)をうたう。はつしはつし。一段好う御ざる。

▲アト馬「罷出たる者は。此辺(このあたり)の馬博労で御ざる。此所御(ご)福貴に付{*1}。牛馬の新市を御立(たて)なさるゝ。何者にても早々罷出。一の杭に繋いだ者を。末代迄市の司に仰せ付られうとの御事で御ざる。某罷出。一の杭に繋がうと存(ぞんじ)て。夜深(よふか)に御ざれども罷出た。先(まづ)急いで参らう。

[道行]やれやれ只今こそ。斯様(かやう)の賤(いやし)い商売致すとも。一の杭に繋いで御ざるなら。後には何を商はうと。身共次第ぢや。参る程に市場はこれぢや。さりながら。まだ一の杭は上(かみ)さうな。上へ参らう。此がさうぢや。爰(こゝ)に此馬を繋いで置かう。皆々一の杭を此馬博労が繋いで御ざる。馬の御用あらば仰せられ候へ仰せられ候へ。やアまだ夜深な。少(ちと)まどろみませう。（寐て居るなり）

▲シテ牛「これは山一つ彼方(あなた)に住む。牛博労で御ざる。此所御富貴に付。牛馬の新市を御立なさるゝ。何者なりとも早々罷出。一の杭に繋いだ者を。末代迄市の司に仰付られうとの御事で御ざる。身共も一の杭に繋がうと存じ。早々罷出た。先(まづ)急いで参らう。

[道行]やれやれ只今こそ。斯様の賤(いやし)い商売致すとも。一の杭に繋いで御ざるなら。後には金襴段子(どんす)。綾。錦など商はうと身共次第ぢや。参る程に市場は此ぢや。扨も扨も賑(にぎやか)なことかな。乍去(さりながら)。一の杭はまだ上(かみ)さうな。上へ参らう。是は如何な事。身共程随分夜深に参つた者は有(ある)まいと存(ぞんず)る所に。はや何者やら先へ来て居る。彼奴(あいつ)は大方四五日前(さき)から来て居ると見えた。何とせうぞ。思ひ出した。致しやうが有る。彼(あ)の先の杭に繋いで置かう。まんまと知らぬ様に繋いだ{*2}。皆々一の杭を此牛博労が繋いで御ざる。御用ならば仰せられ候へ。未(まだ)夜深な。少(ちと)まどろまう。

▲馬「扨も扨も寝た事かな。此は何者ぢや知らぬ。やいやい其処な者。起(おき)よ起(おき)よ。

▲牛「これは誰様(どなた)で御ざる。

▲馬「身共は馬博労ぢや。

▲牛「何ぢや。馬博労ぢや。

▲馬「中々。

▲牛「身共は目代殿かと思ふて。よい肝(きも)潰した。其方(そち)が馬博労なれば。身共は牛博労ぢや。

▲馬「夫(それ)でも身共が先へ来た。其所(そこ)を退(の)け。

▲牛「いやいや。身共が先へ来た程に退(のく)まい。

▲馬「それなら目にもの見せう。

▲牛「目に物見せだては置いてくれ{*3}。

▲馬「やア汝(おのれ)は憎い奴の。退(のか)ぬか退(のか)ぬか。蹈め蹈め。

▲牛「やれこれは何とする。出合へ出合へ出合へ。

▲目「やいやいやい。これは何事を論ずるぞ。此芽出度(めでたい)市初(いちぞめ)に何事ぢや。

▲馬「足下(こなた)は誰様(どなた)で御ざる。

▲目「これは所の目代ぢや。

▲牛「先(まづ)御礼申(まをし)ます。

▲目「礼は追(おつ)てのこと。何を論ずるぞ。

▲馬「さればされば。先(まづ)御聞きなされて下され。此所御富貴故。牛馬の新市を御立なさるゝ。御高札(かうさつ)には。何者なりとも早々罷出。一の杭を繋いだ者を。末代迄市の司に仰付られうずとの御事で御ざる。夫(それ)故夜深なれども。身共の早々罷出。まんまと一の杭に繋いで御ざれば。彼(あ)の横著者(わうちやくもの)が後から参つて。先へ来たと申(まをす)程に。退(のけ)と申せども退(のき)ませぬに依つてのことで御ざる。目代殿なら急度(きつと)云ひ付(つけ)て下され。

▲目「何と其方(そち)が先へ来たが真実か。

▲馬「なかなか誠で御ざる。

▲目「夫なら云ひ付て取らせう。先(まづ)待て。やいやい此芽出度新市に。何をわつばと云ふぞ。

▲牛「足下(こなた)は目代殿で御ざるか。

▲目「中々。

▲牛「先(まづ)御礼申(まをし)ます。

▲目「礼は追(おつ)てのこと。何事を云ふぞ。

▲牛「さればのことで御ざる。此所御富貴に付(つい)て。牛馬の新市を御立なさるゝ。御高札には。何者にはよるまい。早々罷出。一の杭に繋いだ者を。末代迄市の司に仰せ付られうとの御事で御ざるに依(よつ)て。身共が早々罷出。一の杭に繋いで御ざれば。彼(あ)の横著者(わうちやくもの)が。私よりとつと後から参つて。先へ来たと申(まをす)。夫を申上(まをしあが)つてのことで御ざる。目代殿ならば。急度(きつと)御詮議なされて下され。

▲目「これは埒の明(あか)ぬ事ぢや。何方(どれ)も同じやうなことを云ふ。やいやい。彼(あれ)に様子を尋ねたれば。汝が云ふ如く彼(あれ)も先へ来たと云ふ。これでは何共埒が明(あか)ぬわ。

▲馬「扨は左様に無理を申(まをし)ますが。私が先へ参りましたが定(ぢやう)で御ざれども。左様に申さば先(まづ)其通(とほり)になりともなされ。総じて此馬と申(まをす)は。上(かみ)つ方に御重宝なされて。駒競(くらべ)の。流鏑馬のと申(まをし)てとつと尋常なもので御ざる{*3}。彼(あ)の又牛と申(まをす)は。賤(いやし)いもので御ざる。此芽出度(めでたい)市場に。一の杭には立(たゝ)れますまい。とつと市末へ遣らせられませ。

▲目「尤ぢや。其通(とほり)云ひ付(つけ)てやらう。やいやい。彼(あれ)が只今云ふたを聞(きい)たか。

▲牛「中々承りました。尤彼(あれ)が申(まをす)如く。駒競の。流鏑馬のと申(まをし)て御ざれども。それも此牛と申(まをす)物に田を鍤(す)かせ。米(よね)を作り。供御(くご)を差上申(さしあげまをし)て。其上にこそ駒競も。流鏑馬も入(いり)ませうずれ。何も参らずば。頤(おとがひ)で蠅を追ふで御ざらうと仰せられて下され。

▲目「これも尤聞(きこ)えた。其通(とほり)を云はうぞ。やいやい。只今彼(あれ)が云ふを聞いたか。

▲馬「中々承りました。我儘なこと申(まをす)。夫は左(と)もあれ。此方(こなた)の馬にはとつと系図が御ざる。彼(あれ)が牛には系図は御ざるまい。

▲目「何と馬の系図が有る。夫なら語(かたつ)て聞(きか)せ。

▲馬「畏つて御ざる。語(かたり)ませう。

[語]夫(それ)馬は馬頭観音の化身として。仏の説きし法(のり)の舟。月氏国(げつしこく)より漢土(かんど)迄。馬こそ負(おふ)て渡るなり。周の穆(ぼく)王の八匹の駒。扨項羽の望雲水。（誤也）安禄山のくわれう（驊驑(くわりう)）なんどは。何(いづ)れも千里をかくるなり。又管仲は旅に出で。俄に大雪降(ふり)。故郷へ帰らん道を忘れつゝ。馬を放ちて。其後(あと)を導(しるべ)にしつゝ帰りしも。馬の徳とぞ聞(きこ)えける。扨日の本に名を得しは。雨の駮(ぶち)駒初(はじめ)として。光源氏の大将の馬に稲乞(いねこひ)須磨の浦。焼金南寮(やきがねなんりやう)。木(こ)の下や。よめなし月毛。鬼足毛。源太佐々木が名を上(あげ)し。生食(いけづき)。摺墨(するすみ)。太夫黒(たいふぐろ)。雲の上には望月の駒むかひせし逢坂の。小(こ)さかの駒も心して。引(ひく)白馬(あをうま)の節会にも。牛のねり入(いる)例(ためし)なし。仏の前には絵馬を掛け。神には立(たつ)る幣(へい)の駒。駒北風(ほくふう)に嘶(いばふ)れば。悪魔はくわつと退(しりぞき)て。目出度(めでたき)事を競馬(きほひうま)。又本歌(ほんか)にも。逢坂の。関の清水に。かげ見えて。今やひくらん。望月の駒。とこそあれ。牛とは御ざるまい。

▲目「扨も扨もこれは聞き事ぢや。彼(あれ)も系図が有(ある)か尋(たづね)て見やう。やいやい。彼(あ)の馬には系図が有(ある)と云ふて其仔細を語つた。汝が牛にも系図が有(ある)か語れ。

▲牛「畏つて御ざる。系図がござる。語(かたり)ませう。能う聞いて下され。

[語]抑(そもそも)牛は大日如来の化身として{*4}。牽牛織女と聞(きく)時は。七夕(しちせき)も牛をこそ寵愛し給ふ。恵山(ゑざん)和尚といつし人。我(わが)身を牛になしてこそ。いるゐの法を見せしむれ。許由と云へる賢人は。王になれとの勅を受け。耳を洗ひし水をだに。巣父(さうふ)は牛に飼はざりし。仏の作る十牛や。法(のり)の花咲く牛の子に。桃林(たうりん)の春も面白や。今は昔になりひらの。うしみつ迄の御契(ちぎり)。さこそ心をつくし牛。野飼の牛の一声(こゑ)も。草刈(くさかり)笛にやまがふらん。されば牛も心あればこそ。風吹古木晴天雨(かぜこぼくをふけばせいてんのあめ)と女(め)牛吟ずれば。男(を)牛聞き。月照平砂夏夜霜(つきへいさをてらせばなつのよのしも)と。此両牛(ぎう)の声を。朗詠にも作りたり。忝(かたじけな)くも天神の御詠歌に。牛の子に。ふまるな庭のかたつむり。角ありとても。身をば頼(たのみ)そ。斯様(かやう)にこそあれ。やはか馬とは候まい。其上一天の君も。牛に引(ひか)れて行幸(ぎやうかう)あれ。馬にひかれて行幸有(あり)たる例(ためし)は有(ある)まいぞ。

▲目「扨も扨も。これも劣らぬ系図ぢや乍去(さりながら)。これでも何共云ひ付(つけ)られぬ。やいやいこれでも云ひ付(つけ)られぬ。重(かさね)て何ぞ勝負をせい。

▲馬「されば何を致しませうぞ。勝負に駒競(くらべ)致して。馳合(かけあひ)ませう。問はせられて下され。

▲目「心得た。やいやい。今度は勝負に駒競(くらべ)して。馳(かけ)合はさせうといふが。汝もするか。

▲牛「いやいや。それはなりますまい。総じて馬は疾(はや)いものでござる。牛は馳(かく)ることが遅う御ざる。なりますまい。

▲目「いやいや。為(せ)ずば汝が負(まけ)ぢやぞ。

▲牛「夫なら是非に及びませぬ。致(いたし)ませう{*5}。

▲目「夫ならこれへ出よ。牛もこれへ出よ。さア馳(かけ)い。　

▲馬「どうどうどう。

▲牛「させいほうせいさせいほうせい。

▲馬「どうどうどう。さア勝(かつ)たぞ勝(かつ)たぞ。

▲牛「やいやいやい。

▲馬「何事ぢや。

▲牛「おそうしもよど。はやうしもよどゝいふ。明日の今時分には追(おつ)付かうぞ。

▲馬「最早(もはや)勝(かつ)たぞ勝たぞ。どうどうどう。

▲牛「させいほうせいさせいほうせいさせいほうせい。

校訂者注

　1：底本のまま。

　2・3：底本に句点はない。

　4：底本は「柳(そもそも)」。

　5：底本に句点はない。