横座
▲アト(傍(わき)正面にて名乗る)「これは。この辺(あたり)に住居(すまゐ)するもので厶(ござ)る。某(それがし)。頃日(このごろ)牛を求めて厶(ござ)るが。身共は牛の善悪(よしあし)を存ぜぬ。茲(こゝ)に身共の存じた伯楽が厶(ござ)る。これへ引いて参り。目明(めあかし)させうと存ずる。先(まづ)。そろそろ参らう。惣じて牛と申すは。見掛(みかけ)と違うて。役に立たぬ牛があるもので厶(ござ)る。左様の事は。私も存ぜぬ。
▲シテ「罷出でたるものは。此辺(このあたり)に住む伯楽で厶(ござ)る。此中(このぢゆう)私の牛を。何者やら盗んで参つた。あなた此方(こなた)と尋ぬれども知れませぬ。夫(それ)故。占(うら)が方(かた)に占なはせて厶(ござ)れば。辰巳(たつみ)の方(かた)にあると申す。辰巳の方には。身共の存ずるお方が厶(ござ)る。今日はこれへ参り。たづねやうと存ずる{*1}。先(まづ)。そろそろ参らう。やア。これは何処へ御坐ります。
▲ア「扨もよい所で逢ふた。我御料(わごりよ)の所へ行くわ。
▲シテ「それは。何と思(おぼし)召しお出でなされます。
▲ア「其の事でおりやる。此中。身共は牛を求めた。よい牛か悪い牛か。其方(そなた)に目明(めあかし)して貰はうと思ふて参るわ。
▲シテ「扨は。左様で厶(ござ)るか。私はまた。こなたの方(かた)へ参ります。
▲ア「それはどうした事ぞ。
▲シテ「其の事で厶(ござ)る。私が。牛を此中盗まれて。見えませぬ。方(はう)々尋ねますれども。知れませぬ。占方(うらかた)に占なうて貰ひましたれば。辰巳の方(かた)にあると申す。私の方(かた)より。辰巳はこなたの方で厶(ござ)るに由つて。様子尋ねませうと存じて。只今参る所で厶(ござ)る。先(まづ)。こなたの求めさせられた牛は。此で厶(ござ)るか。
▲ア「中々。これでおりやる。見てたもれ。
▲シテ「心得ました。惣じて。牛の目明と申すは。様(さま)々厶(ござ)る。見所があつてよい牛悪い牛が知れます{*2}。やア。能(よ)うみれば。此の牛は。私の失うた牛で厶(ござ)る。これは私に下され。
▲ア「我御料(わごりよ)は。むざとした事をいふ。牛によつて。似た牛もあらう。其方(そなた)の牛ぢやといふには。何ぞ覚(おぼえ)があるか。
▲シテ「如何にも。覚(おぼえ)が厶(ござ)る。此の牛の生(うま)れました時。私は。地下(ちか)の会所にゐましたが。牛が馬屋(まや)で子を生んだというて。牛の子を引いて来た。みなみな。目出たい事ぢやと云うて。其の儘。某(それがし)が横座(よこざ)につけました。夫(それ)で。あれの名を横坐と申します。私に懐(なつ)きまして。身共の横座よと申して呼べば。答(いら)へます。これが証拠で厶(ござ)る。
▲ア「尤。聞きわけた。それならば是非に及ばぬ。身共も。大分の金銀の出して求めたれども。其方(そなた)が呼うでみて答(いら)へたらば。此の牛を我御料(わごりよ)にやらうぞ。呼うで見やれ。
▲シテ「心得ました。さりながら。一声(こゑ)では聞かぬ事も厶(ござ)らう。三声呼びましよ。
▲ア「それなら。三声呼うでみやれ。若(も)し答(いら)へずば。我御料(わごりよ)を。某が譜弟(ふだい)にしてやらうぞ。
▲シテ「兎も角もで厶(ござ)る。さらば。呼うで見ませう。
▲ア「さアさア。呼うで見やれ。
▲シテ「横座よ。
▲ア「そりや一つ。
▲シテ「横座よ。
▲ア「それ二つ。
▲シテ「其の様に。せはしう仰せられてはなりませぬ。
▲ア「いやいや。身共も。大事の勝負ぢやによつて。倥(ぬかつ)てはならぬ。さアさア。も一声ぢや。呼うでみやれ。
▲シテ「合点の参らぬ事で厶(ござ)る。此中。私の傍を離れましたに由つて。忘れたもので厶(ござ)らう。今一声が大事の所で厶(ござ)る。少し待つて下され。宣命(せみやう)を含めませう{*3}。
▲ア「如何(いか)やうともしやれ。鳴きはせまい。
▲シテ[語]「扨も文徳天皇に。二人の皇子(わうじ)おはします。御名(みな)をば惟高(これたか)惟仁(これひと)と申しける。御門(みかど)崩御の後。嫡々にてましませば。惟高こそ位に即き給ふべきに。惟仁御代(みよ)を御持(おもち)あるべき事。思(おもひ)もよらぬ御沙汰なり。然れども。継母(けいぼ)の御計らひの事なれば。既に勝負に極(きは)まりぬ。其の時の勝負には。十番の相撲。十番の競(きほひ)にてありしよな。いゝや。左様の大事の御勝負に。御祈祷なくては叶はじと。惟高の御祈祷人(びと)は。柿本(かきのもと)の貴(き)僧正。惟仁の御祈祷人は。天台山の恵了和尚なり。僧正当寺(たうじ)に檀を飾り{*4}。肝胆を砕き祈りたまへば。比(ならび)なき貴僧正にてましますにより。十番の相撲に。続けて四番。惟高のお方(かた)に勝ち給ふ{*5}。惟仁の公卿大臣手に汗握り。比叡山に頻(しきり)に御使ありしかば。其の時恵了和尚。五大尊の引きたて申す独鈷(とくこ)を取つて。脳(なづき)を砕き。脳(なう)を取つて護摩に焼(た)き給へば。其の行法や積(つも)りけん。西方大威徳がめされつる牛が。比叡の山響けと三声(こゑ)までほえ。残り六番を惟仁方(かた)に勝ち給へば。惟仁御代を御持(おんもち)ありしとかや。こゝを以つて古人の言葉に。恵了脳(なづき)を打てば。二弟(てい)位(くらゐ)にそなはる。言葉は。此の時よりの言葉ぞかし。されば。絵にかける牛だにも。人の心を憐(あはれ)みて。比叡の山響けと三度(たび)迄吼(ほ)ゆるに。いはんや。汝は生(うま)れたる牛の皮剥がれめが。今一声ほえぬものならば。勝負にまくるといひ。汝にはなるゝと云ひ。主(しゆう)をも持たぬ某に。主(しゆう)をもたすといひ。茲(こゝ)は安否の境(さかひ)なり。心もあらば今一声(こゑ)。答(いら)へて呉(く)れい横雲よ{*6}。そりや泣いた。取つて帰るぞ。
▲ア「やれ。先(まづ)待て待て。牛は取つて行くとも。せめて其の綱は返せ返せ。
▲シテ「いやいや。ならぬぞならぬぞ。
底本:『狂言全集 下巻 狂言記拾遺』「巻の一 八 横座」
校訂者注
1:底本は「たつねやうと存ずる」。
2:底本は「よい牛悪い牛か知れます」。
3:底本は「宣命を含めましう」。
4~6:底本のまま。
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