老武者
▲三位稚児[次第]「人目を包むたびなれば。人目を包むたびなれば。まだ夜の中(うち)に出でうよ。
▲三位「これは相模の国のもので御座る。これなる稚児は。さる仔細有つて。人目を包み都へ御伴(おとも)申し候ふ。住みなれし{*1}。まつ曽我よりも立出(たちい)でゝ立出でゝ。藤沢の宿には着きもせで。そばなる宿に着きにけり{*2}。
▲三位[詞]「急ぐ程に。是は早(はや)藤沢の宿に着いて御座る。漸(やうや)う日も暮れかゝりました。宿(やど)を借らばやと存ずる。物まう。案内も。
▲ヤド「やア。表で案内とある。何方(どなた)で御座る。
▲三「これは旅の者で御座る。一夜の宿を貸して下され。
▲ヤド「安い事で御座る。貸しましよ程に。奥へ通らせられ。
▲三「心得ました。
▲立衆「これは此の辺(あたり)に住居(すまゐ)する者で御座る。夜前この宿(しゆく)へ。さる稚児の宿(やど)を取られたと申す。承れば。殊の外美しいと申す程に。皆々同道致し参り。盃を望(のぞみ)致さうと存ずる。皆々御座るか。
▲立衆「中々。これに居ます。いざ。同道致し参りましよか。
▲立衆「さアさア。御座れ御座れ。何かと申す中(うち)に。これぢや。物まう。案内も。
▲ヤド「表に案内がある。何方(どなた)で御座る。やア。何(いづれ)も何と思ふて御出に成つた。
▲立「其の事で御座る。夜前これへ旅の稚児の着(つか)れたと申し。若い衆が聞(きゝ)及んで。盃をしたいと申されます程に。何卒(なにとぞ)。よい様に云ふて盃をさしてたもれ。頼みますぞ。
▲ヤド「如何にも其の通(とほり)申して。随分なるやうに致さう。夫(それ)に待たしめ。
▲立「心得ました。
▲ヤド「三位殿。夫に御座るか。定めて草臥(くたび)れなされう。さうあれば。此の辺(あたり)の若い衆が稚児の事聞及んで。盃を致したいといふて参られた。此方(こなた)よい様にいふて。盃をさして下され。
▲三「是は思(おもひ)も寄らぬ事で御座る。さりながら。此の辺の若い衆なら。某(それがし)が受取りました。盃を致させませう。此方(こち)へ通させられ。
▲ヤド「夫は。近頃過分に御座る。此方(こち)へ通しましよ。喃(なう)々。若い衆。御座るか。
▲立「これに居ます。
▲ヤド「其の通り申して御座れば。三位殿が受(うけ)とつて。盃をさせうと申されます。此方へ通らせられ。
▲立「夫は。先(まづ)満足致した。通りましよ。さアさア。皆々御座れ御座れ。
▲ヤド「さらば。稚児様から参つて。若い衆へさゝせられ。
▲稚児「三位。之を飲(のま)うか。
▲三「如何にも。参つて若い衆へ遣(つか)はされ。
▲ヤド「さアさア。若い衆。お稚児様の盃ぢや。戴(いたゞか)せられ。
▲立「扨も扨も。これは忝(かたじけ)ない。さ。ちと唄ひましよ。
▲[謡]「さゝんざア。浜松のおとはさゝんさア。
いざ。此の盃を稚児様へ戻しましよ。お稚児様へ申します。受(うけ)持ちました。肴に舞を一つ舞はせられ。
▲稚児「三位。舞ふか。
▲三「如何にも。舞はせられ。
▲稚児「やんまかやせやんまかやせ。
▲シテ老父「これは。此の辺(あたり)に住む年寄で御座る。承れば。此宿(しゆく)へ美しい稚児が宿(やど)とられたと申す。あれへ参り。盃を致さうと存ずる。やア。参る程にこれぢや。物まう。案内も。
▲ヤド「又表に案内がある。何方(どなた)で御座る。
▲シテ「身共は。此の辺に住む老父(おほぢ)で御坐る。聞けば。此方(こなた)へ旅のお稚児の宿取らせられたと聞いた。老(おい)の思出(おもひで)や。盃をさして下され。此方(こなた)を頼みますぞ。
▲ヤド「尤此方(こなた)のことで御坐る。年寄つて。其の様に被仰(おつしや)る事ぢや程に。取(とり)持つて盃させて進ぜたいが。先程より。此の辺(あたり)の若い衆が数多(あまた)出られて。盃の最中ぢや程に。其の中(なか)ではなるまい。お帰りやれ。
▲シテ「其の中でも。盃のならぬ事はあるまい。是非共盃さして給(たも)れ。
▲ヤド「はて聞分(きゝわけ)のない。何(ど)うでも今はならぬ。お帰りやれ。
▲シテ「己(おのれ){*3}。憎い奴の。これ程に云ふに。ならぬと云ふ。夫なら。目に物見せう。
▲ヤド「夫は誰か。
▲シテ「おれが。
▲ヤド「やア。目に物見せだて。おいてくれ。
▲シテ「悔(くや)むな{*4}。おのれ。たつた今目に物見せうぞ。喃(なう)々。腹立(はらたち)や腹立や。
▲ヤド「やア。殊の外老父(おほぢ)が腹立てゝ帰つた。何程の事が有らう。やアやア。何といふ。老父(おほぢ)が腹を立てゝ。大勢老父(おほぢ)共語らひ寄せて来るといふか。是は油断がならぬ。これこれ。三位殿。若い衆。最前から。老父(おほぢ)が参つた様子を聞かせられたか。
▲立「中々。これで一々聞きました。長道具(ながだうぐ)で押寄せ参るか。夫なら油断はなるまい。何(いづ)れも用意めされ。ぬからせらるゝな。
▲立「心得ました。心得た心得た。
▲シテ[節]四人「老(おい)武者は。腰に梓の弓を張り。翁さびたる鑓(やり)長刀(なぎなた)を。担(かた)げつれてぞ押寄せたる。
▲三{*5}「若い衆の勢(せい)はこれをみて。
[地]これをみて。昔(むか)しは知らず当代は。にやくぞくどもこそ人手(ひとて)はとれ。如何(いか)に勢(いきほ)ひたまふとも。さまでのことはあらじ物をと。皆一度(ど)にぞ笑ひける笑ひける。
▲シテ{*6}「年寄(としより)どもはこれをきゝこれをきゝ。熊坂の入道六十三。斎藤別当さねもりも。六十に余つて打死(うちじに)す。其の外(ほか)老(おい)武者の。食うたる所がたこになるとて。或ひは六十或ひは七十。何(いづ)れも劣らぬ老武者共。きつ先をそろへてかゝりけり。
▲三{*7}「若衆の中(うち)より下知をなし
[地]下知をなし。流石(さすが)にこれはおやかたたちなる。かまへてかまへてあやまちすなと。抱き取り抱き取り制すれば。思(おもひ)の外(ほか)なる若(にやく)ぞくすぎしすぎしして{*8}。皆家々にぞ帰りける。
底本:『狂言全集 下巻 狂言記拾遺』「巻の二 六 老武者」
校訂者注
1:底本、「住みなれし」以降に傍点がある。
2:底本は「そはなる宿に」。
3:底本は「已(おのれ)」。
4:底本は「悔(やく)むな」。
5~7:底本、ここは全て傍点がある。
8:底本は「若ぞくすぎし(二字以上の繰り返し記号。濁点なし。)して」。
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