水論聟
▲アト舅「これは此辺(このあたり)の百姓で御座る。当年は殊外(ことのほか)田が能(よ)う出来て。此様な嬉しい事は御座らぬ。さりながら。此中(このぢゆう)打(うち)続き天気能う御座るによつて。田に水が御座らぬ。夫(それ)故。毎日毎日田へ見舞ふ事で御座る。やれやれ。降らぬ事かな。何卒(なにとぞ)一雨降らしたい事で御座る。やア。参る程に身共が田はこれぢや。扨も扨も能う出来た。やア。これは。まんまと水を仕掛けておいたが。身共の水口(みづぐち)をとめて隣の田へ水をとる。さてもさても。憎い事かな。隣の田と申すもよそでは御座らぬ。おれが聟の田ぢや。扨聞(きこ)えぬ事かな。先(まづ)水を仕掛けましよ。はア。水がくるわくるわ。まんまとよい。兎角このやうな年は。親子でも油断がならぬ。爰(こゝ)に番をしてゐましよ。
▲シテ聟「罷出でたるものは。此辺(このあたり)の百姓で御座る。誠に。今年は世の中がようて。田が殊外(ことのほか)よう出来ました。さりながら。久しう雨が降らぬに由(よ)つて{*1}。田に水がない。夫故。節(せつ)々田へ見舞はねばならぬ。又唯今も見舞ひましよ。やれやれ。今一雨降れば十分の世の中ぢやが。ふらぬ事かな。何卒ふらしたい事で御座る。参る程に身共の田ぢや。扨々能う出来た。人の田と違うて。畔道かぎつてよう出来た。これは如何な事。水を能う仕掛けておいた水口を塞いで。隣へ水をとる。隣の田も。よそ外(ほか)でも御座らぬ{*2}。舅の誰が田ぢや。扨も扨も。聞(きこ)えぬことをしらるゝ。
▲アト「やア。こりや。お出でやつたよ。
▲シテ「中々。見舞ひました。
▲アト「何と降らぬ事ではないか。
▲シテ「さればされば。降らぬ事で御座る。
▲アト「やア。夕(ゆふべ)アは地下中(ぢげぢゆう)の寄合(よりあひ)があつたといふが。何の寄合であつたぞ。
▲シテ「誠に。此方(こなた)は見えませなんだが。別の事でも御座らぬ。此如(このごと)くに降らぬに由(よ)つて。雨乞(あまごひ)の寄合で御座る。地下中が口々に。雨乞には踊(をどり)を踊らうの。いや相撲をとらうと口々にいふて。ちやつと埒が明きませなんだ。其時庄屋殿がおしやるは。兎角。何かといはうより踊がよかろといふて。遂に踊にきはまりましたわ。
▲アト「それは庄屋殿よい覚(おぼえ)ぢや。とつと前も此様にふらぬ事があつて。踊を踊つたれば。其の儘降つておりやるわ。
▲シテ「左様で御座る。それで地下の若い衆どもが。踊らうというて。踊の稽古するやら。浴衣を拵へる。夫は夫は。賑(にぎや)かに御座る。
▲アト「やいやい。夫は何とするぞ。
▲シテ「これは。田へ水をとる。
▲アト「此中(このぢゆう)。誰がするかと思へば。我御料(わごれう)がするか。そちが為に。身共は舅おやといふて。親同然ぢや。よその者がせうと吟味もせう者が。其様な事をするものか。
▲シテ「喃(なう)。そこな人。それならこなたの為には。身共は聟ぢや。聟子(むこご)といふて子同然の者の田を。そなたが身がちな。其方(そち)へ斗(ばかり)水をとるものか。
▲アト「やいやい。そこな者。惣別(そうべつ)この井手(ゐで)は。どこへとる為の井手ぢや。
▲シテ「是は地下中へとる井手ぢやわ。
▲アト「されば。其の地下中へ取る井手を。其方(そち)が一人(り)して取るか。
▲シテ「此様な時は。とりがちぢや。
▲アト「やア。取勝(とりがち)なら身共もとらう{*3}。
▲シテ「やア。これは。なぜに水を掛くる。
▲アト「はて。怪我にかゝつた。堪忍せい。
▲シテ「怪我なら。そりや怪我よ。
▲アト「身共は怪我ぢや。こりや。態(わざ)とかくるか。そりや怪我よ。
▲シテ「そりや怪我よ。やア。これは砂をかけたか。己(おのれ)負ける事ではないぞ。
▲アト「やア。夫は泥ではないか。
▲シテ「どこへ逃(にが)す事ではないぞ。
▲アト「これはこれは。最早(もはや)堪忍がならぬぞ。
▲女いづる「喃(なう)々。悲しや悲しや。父(とゝ)様と良人(こちのひと)と喧嘩が出来たが。何とせうぞ。人は無いか。とりさへて下され。とりさへて下され。
▲シテ「やアおなか。足をとれ足をとれ。
▲女「心得ました。
▲シテ「勝つたぞ勝つたぞ。いとしやいとしや。おな。こちへおりやれおりやれ。
▲女「喃(なう)々父(とゝ)様。祭にはきませうぞや。
▲アト「何の祭によばうぞ。いたづら者奴(め)。やるまいぞやるまいぞ。
底本:『狂言全集 下巻 狂言記拾遺』「巻の三 二 水論聟」
校訂者注
1:底本は「雨が降らねに由つて」。
2:底本のまま。
3:底本に句点はない。
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