若市
▲ワキ住持「これは。此辺(このあたり)に住む愚僧で御座る。今日(こんにち)は或方(さるかた)へ常斎(じやうとき)に参つて。只今罷(まかり)帰る。先(まづ)。そろそろと帰らう。やれやれ。誠に仏のお陰は有難い事で御座る。何方(いづかた)へ参つても御馳走なされる事で御座る。
▲シテ若市「私は。此辺(このあたり)に住む若市(にやくいち)と申す者で御座る。さる御出入致すお方から。花を呉(く)れいと仰せられたに由(よ)つて。此花を調(とゝの)へ。只今持つて参ります。之を進ぜたらば。定めて喜ばせらるゝで御座ろ。
▲住「やア若市。此中(このぢゆう)は久しう逢はぬ。これは何方(どち)へおりやるぞ。
▲シテ「誠に此間は御見舞も申しませぬ。只今は。ちとお出入致します旦那衆へ参ります。
▲住「先(まづ)。其方(そなた)も無事で一段ぢや。其の。只今隠したは何でおりやる。
▲シテ「いや。何でも御座らぬ。
▲住「何でもないものを隠すといふは合点がいかぬ。見しやれ。
▲シテ「いや。見せますものでは御座らぬ。
▲住「どうでも見しやれ。
▲シテ「いやいや。見せますまい。
▲住「やア。此花は見しりがある。隠した事こそ道理なれ。これは身共が花壇の花ぢや。なぜに盗んで来た。
▲シテ「いや。これは此方(こなた)の庭の花では御座らぬ。余所(よそ)で貰ふて参つた。旦那衆へ持つて参る。御寺の花では御座らぬ。
▲住「まだ其様にあらがふか。誰が荒すぞと思ふたれば。憎い奴の。何とせうぞ。
▲シテ「いや。それは此方(こなた)の花ではない。此方(こち)へおこさせられ。余所(よそ)へ持つて参らねばなりませぬ。
▲住「己(おのれ)は憎い奴の。身共の花を盗みながら。どこへ。其方(そち)にやらうぞ。見れば腹が立つ。打ち折つてくれう。扨も扨も腹の立つ事かな。
▲シテ「やア。これは。身共が節々貰ふて来た花を打(うち)折つたか。扨も扨も腹の立つ事かな。やい坊主。己(おのれ)堪忍がならぬ。たつた今。目に物見せうぞ。
▲住「其方(そち)が分で。目に物見せだては。おいてくれ。
▲シテ「悔(くや)むなよ。
▲住「悔(くや)む事ではないぞ。
▲シテ「己。待て。思(おもひ)知らせうぞ。
▲住「扨も扨も嬉しや嬉しや。此中(このぢゆう)。誰が花を荒すかと思ふたれば。若市奴(め)ぢや。思ふまゝ打擲してやつた。先(まづ)寺へ帰らう。
▲旦那「それは誠か。何と誠ぢや。是は知らせずばなるまい。申し申しお住持様。内に御座りますか。
▲住「やア。能(よ)うこそ御座つたれ。何と思ふて御座つた。
▲旦「こなたには。ゆるりとして御座る。様子を聞かせられぬか。
▲住「いや。何事も存ぜぬ。何事で御座る。
▲旦「此方(こなた)は。若市を打擲なされたか。
▲住「中々。身共の花壇の花を盗みましたに由(よ)つて。其の花を打折つて捨て。思ふ様打擲して帰しました。
▲旦「されば。それを殊外(ことのほか)腹を立てゝ。尼共を大勢語(かたら)ふて。追付(おつゝけ)長道具で押(おし)寄せて参る。
▲住「それは誠で御座るか。
▲旦「中々。
▲住「夫(それ)ならば。油断してはなりますまい。用意致さう。
▲旦「拵(こしら)へて進じやう。先(まづ)。襷(たすき)をかけさせられ。之を用心に着させられ。此の棒で防がせられ。
▲住「これで能う御座る。此方(こなた)もそれで後詰(うしろづめ)をして下され。
▲旦「心得ました。これに控へて居ます。慥(たしか)に思はせられ。
▲シテ{*1}「こゑごゑに。日中鯨波(とき)を作りかけ。鉦鼓(しやうこ)をならし鐘をうつて。上人(じやうにん)の御坊へ押(おし)寄せたり。
▲住[詞]「其の時上人たかき所にはしり上(のぼ)り。寄手(よせて)の勢をみわたせば。あま方(かた)の勢は三百人{*2}。
[地]三百人。おもひおもひの打扮(いでたち)に。こゝろこゝろの打物(うちもの)ぬきもち。仏前の庭までみだれ入り。
えい。とうとうとう。
えい。とうとうとう。
▲住{*3}「おまへの勢はこれをみて{*4}、
[地]これをみて。ちうきあ弥かくや上人。我も我もとかゝりたまへば。
▲シテ{*5}「若市は小鎗をぬいて{*6}、
[地]小鎗をぬいて。昔の天野れうぐわんにも劣るまじと。茲(こゝ)や彼所(かしこ)をつきまはれば。さしもに猛き御坊たちも。つきまくられてぞ逃げたりける。
▲住{*7}「上人はらをすゑかねて{*8}、
[地]すゑかねて。手棒をふりあげかゝり給へば。
▲シテ{*9}「若市はこれをみて{*10}、
[地]これをみて。ものものしやと云ふまゝに。上人とむづと組んで。二ふり三ふり振ると見えしが。上人をふり転(ころ)ばかしとつておさへ。刺(さし)刀ぬいて帽子(もうす)をかさとかき落(おと)し。さし上て帰り給へば。あまの寺中(じちゆう)はよろこんで。ぢつくちくと踊りつれて。ぢつくちくと踊りつれて。ぢつくちくと踊りつれて。我(わが)れうれうにぞ帰りける。
底本:『狂言全集 下巻 狂言記拾遺』「巻の三 四 若市」
校訂者注
1:底本、ここは全て傍点がある。
2:底本に句点はない。また、「百人」から[地]の「みだれ入り」まで傍点がある。
2:底本に句点はない。また、「百人」から[地]の「みだれ入り」まで傍点がある。
3:底本、ここは全て傍点がある。
4:底本に読点はない。5:底本、ここは全て傍点がある。
6:底本に読点はない。
7:底本、ここは全て傍点がある。
8:底本に読点はない。9:底本、ここは全て傍点がある。
10:底本に読点はない。
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