塗師平六
▲アト「罷出たるものは。此辺(このあたり)に住居(すまゐ)する者で御座る。某(それがし)はぬし細工を致し。世を渡る者で御座るが。身共の細工は当世にあはぬと申して。すきと流行(はや)りませぬ。又身共の弟子が。越前の北之荘といふ所に塗師細工を致し。殊外(ことのほか)はやると申す。こゝ許(もと)が隙(ひま)ならば。下る様にと申してたより致して御座る程に。此度思(おもひ)立ち。下らうと存ずる。先(まづ)急いで参らう。やれやれ。久々住(すみ)慣れた故郷をふりすてゝ。斯様(かやう)に田舎へ下ると申すは。何とも迷惑な事で御ざる。やア。何彼(なにか)と申す中(うち)に。是がはや北之荘で御座る。此辺(このあたり)ぢやと聞いた。定めてこれであらう。先(まづ)案内こはう。物まう。案内も。
▲女「やア。表に案内がある。どなたで御座る。
▲アト「いや。身共は都に住む平六の師匠で御座るが。身共も都で細工は流行(はや)らず。何と致さうと存ずる所に。平六が隙(ひま)ならば下るやうにといふて。便(たより)致されたによつて。只今遥々と下つておりやる。其の通(とほり)いふてたもれ。
▲女「はて扨。遥々を能(よ)うこそお下りなされました。愛(いと)しや愛しや。此方(こなた)の事を常々申出(まをしいだ)されましたに。此の七日以前に。空しうなられました。
▲アト「これは如何な事。身共は平六を頼(たのみ)にして下つたに。扨も扨も。力落(おと)した事で御座る。何と致さうぞ。
▲女「はて。最早(もはや)是非もない事で御座る。妾(わらは)も何と致さうと存じ。心許(もと)なう御座る。
▲シテ「女共女共。漆漉(うるしこし)はどこに置いた。女共女共。
▲女「喃(なう)々。これは如何な事。先(まづ)其方(そち)へ行かしませ行かしませ。
▲シテ「何事ぢや何事ぢや。
▲女「いや。都からそなたの師匠ぢやといふて。身代稼(しんだいかせぎ)にこれへ下られたが。其方(そなた)の師匠ならば。細工も上手であらう程に。流行(はやる)であらう。其の時はこちの身代の妨(さまたげ)ぢやと思ふて。こなたは七日以前に果てられたと申した程に。そちヘ入つてゐさしませ。構へて逢はします事はならぬぞ。
▲シテ「何といふぞ。師匠が下られた。懐しや懐しや。久しう逢はぬ。どれどれ。行(い)て逢はう。
▲女「いやいや。其方(そなた)は死なれましたといふておいたに。今逢はすれば妾が偽者(いつはりもの)になる。是非共あはしますなら。妾に暇(ひま)をたもれ。
▲シテ「何といふぞ。ひまをくれ。
▲女「中々。
▲シテ「夫(それ)は気の毒な事をいふなア。何とせうぞ。夫なら何卒(なにとぞ)陰(かげ)からなりとも。逢ひたいがなア。
▲女「されば。何とせうぞ。一段の事がある。妾はあれへ行(い)て。平六の幽霊ぢやといはう程に。こなたは幽霊のこしらへをして出さしませ。
▲アト「夫は一段ぢや。其の体(てい)をして出やう程に。そなたはあれへ行(い)て。よい様(やう)おしやれ。
▲女「心得ました。
▲シテ「追付(おつゝ)け拵(こしら)へて出(で)うぞ。
▲女「喃(なう)々。それに御座りますか。
▲アト「中々。これに居ます。今のは平六では御座らぬか。
▲女「さればされば。私も平六殿の声かと思ふて見に参りましたれば。影も形も見えませぬ。此方(こなた)のこれへお出でなされたを。草の陰(かげ)より見て。逢ひたいと思ふて。幻にがな見えられたもので御座らう。此上は。只成仏致されます様に。平六殿の後を吊(とむら)ふて下されませ。
▲アト「如何にも。早(はや)悔(くや)んでもかへらぬ事ぢや。此上は。一遍の回向なりと致さう。
▲女「それは忝(かたじけ)なう御座ります。御吊(とむらひ)なされて下され。
▲アト「心得ておりやる。其方(そなた)もこれへ寄つて念仏を申しやれ。
▲アト[謡]「旅人は鉦鼓(しやうこ)をならし。女房[下]と。
▲二人「念仏申し平六が。なき後いざや吊(とむら)はん。なき後いざや吊はん。
▲シテ{*1}「有難や。のりのうるしのえにしあれば。再び閻浮(えんふ)にかへるなり。
▲アト{*2}「ふしぎやな。平六の姿形。かげの如くに見えけるは。念仏の功力(くりき)かや。有難や。
▲シテ[詞]「我(われ)平六の幽霊なるが。御吊(ともらひ)の有難さに{*3}。これ迄顕(あらは)れ出でゝ候ふ。
▲アト{*4}「扨は平六が幽霊なるかや。都にて見し時よりは。衰へはてたる無残さよ。
▲シテ[詞]「我(われ)都にある時は花漆。今は年長(た)け蝋色(らふいろ)の。漆の罰(ばち)やあたりたるかや。
▲アト{*5}「しよくの有様懺悔せよ。
▲シテ{*6}「いでいでさらば語り申さんと。恥(はづか)しながら餓鬼道の餓鬼道[ハル]の。ぬしとなつて。青漆(せいしつ)のごとくなる淵にのぞんで。漆漉(うるしこし)に水を入れて呑まんとすれば。程なく火燄(くわえん)と燃え上つて。[下]身はやけうるしとなりたるぞやなりたるぞや。
▲シテ{*7}「又[下]ある時は布にまかれ。捻木(ねぢき)を入れて。[ハル]ひたねぢに捻(ねぢ)つめられて。[ハル]あら心う[下]るしばけの[ハル]ばけ損(そこな)はゞ如何(いか)ならんと。ふろの小蔭(こかげ)に入りにけり。ぬりごめたぎやうといふ事もいふ事も{*8}。此時よりぞ初(はじま)りける。
底本:『狂言全集 下巻 狂言記拾遺』「巻の三 六 塗師平六」
校訂者注
1・2:底本、ここは全て傍点がある。
3:底本のまま。
4~7:底本、ここは全て傍点がある。
8:底本は「いふ事(二字以上の繰り返し記号)も」。
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