人馬
▲シテ「此の辺(あたり)に隠れない大名。某(それがし)の召(めし)使ふ者は只一人(り)で御座る。殊の外一人では不自由で。使(つかひ)足らぬ。新座者を抱(かゝへ)うと存ずる。先(まづ)。太郎冠者(くわじや)に申付(まをしつけ)う。やいやい太郎冠者。あるかやい。
▲太「はア。お前に居ります。
▲シテ「念なう早かつた。汝呼出(よびいだ)すは別の事でない。汝一人では人が使足らぬ程に。今一人抱(かゝへ)うと思ふ程に。其方(そち)は上下(かみしも)の街道へ行(い)て。よさゝうな者を抱へてこい。
▲太「畏つて御座る。
▲シテ「最早(もはや)行くか。
▲太「斯(か)う参ります。
▲シテ「軈(やが)て戻れ。
▲太「はア。
▲シテ「えい。
▲太「はア。やれやれ。俄(にはか)な事を仰(おほせ)付けられた。先(まづ)街道へ参り。何者ぞよさゝうな者が通らば。抱へて参らう。誠に只今迄は。某(それがし)一人で殊の外苦労を致したが。新座が参つたら。身共も少し休足致さうと存ずる。参る程に。これぢや。此の所に待つてゐやうと存ずる。
▲東国「罷出でたる者は東国方(がた)の者で御座る。此度思(おもひ)立ち都へ上り。此処彼処(かしこ)をも見物致し。又よさゝうな所があらば。奉公をも致さうと存ずる。先(まづ)。そろそろと参らう。皆人の仰せらるゝは。若い時に旅をせねば。老いて物語がないと仰せらるゝにより。俄(にはか)に思(おもひ)立つて御座る。
▲太「されば。茲(こゝ)へよさゝうな者が参つた。喃(なう)々。これこれ。
▲東「此方(こち)の事か。何事で御座るぞ。
▲太「成程其方(そなた)の事ぢや。近頃聊爾な申(まをし)事ぢやが。若(も)し。其方(そなた)は奉公の望(のぞみ)ではないか。
▲東「中々。私は奉公が望(のぞみ)で上方へ上(のぼ)ります。
▲太「夫(それ)は幸(さいはひ)の事ぢや。某が頼うだお方は御大名ぢや。これへ肝入れて申(まをし)出さうぞ。
▲東「夫は忝(かたじけ)なう御座る。お肝入られて下され。
▲太「何と。只今でもおりやらうか。
▲東「参ります。
▲太「誠に苟且(かりそめ)に詞(ことば)を掛けて同道するは。よい縁でおりやる。
▲東「袖の振(ふり)合ふも他生の縁とは。斯様(かやう)の事で御座らう。
▲太「やア。何彼(なにか)といふ中(うち)に。これぢや。先(まづ)夫(それ)に待たしませ。
▲東「心得ました。
▲太「申し。頼うだお方御座りますか。
▲シテ「やア。太郎冠者が戻つたさうな。太郎冠者。戻つたか戻つたか。
▲太「御座りますか御座りますか。
▲シテ「えい。戻つたか。
▲太「只今帰りました。
▲シテ「何と何と。新座の者を抱へて来たか。
▲太「如何にも。抱へて参りました。
▲シテ「出来(でか)した出来(でか)した。どこ許(もと)に置いた。
▲太「御門外(ぐわい)に待(また)して置きました。
▲シテ「初(はじめ)ある事が終(をわり)あると。彼奴(きやつ)がきく様に過(くわ)をいはう。汝は数多(あまた)に答へ。
▲太「畏つて御座る。
▲シテ「やいやい。太郎冠者居るか。
▲太「はア。
▲シテ「床机をくれい。
▲太「はア。お床机で御座る。
▲シテ「何と今の声を聞(きか)うか。
▲太「中々。承りましよ。
▲シテ「夫ならあれへ行(い)て。頼うだ者只今あれへ出られた。あれへ出て目見(めみえ)をせい。お目に入(いつ)たら。当座に御遣(つか)はんさうである。又お目も参らずば。五三日(にち)も逗留があらうといふて。汝が云ふ分(ぶん)でこれへ出せ。
▲太「畏つて御座る。喃(なう)々。おりやるか。
▲東「これに居ります。
▲太「頼うだお方。只今広間へ出られた。あれへ出て目見(めみえ)をめされ。御目が参(まゐつ)たら。当座に使はんさうである。御目も参らずば。五三日(にち)も逗留が参らう。さアさア。お出やれ。
▲東「心得ました。
▲シテ「やい。太郎冠者。居るか。
▲太「はア。
▲シテ「今日はよい天気ぢやなア。
▲太「左様で御座ります。
▲シテ「暮(くれ)がよかろ。暮(くれ)に及うだら。若い衆が鞠を遊ばさう。かゝりへ水を打(うた)せておけ。
▲太「はア。
▲シテ「えい。
▲太「新座の者で御座る。
▲シテ「彼奴(きやつ)めか。
▲太「あれで御座る。
▲シテ「とつと利根(りこん)さうな奴ぢや。去(さり)ながら。見掛けと違ふて鈍(どん)な奴がある。彼奴(きやつ)に何も芸はないか。問ふて来い。
▲太「畏つて御座る。喃(なう)々。其方(そなた)に何も芸はないかと仰せらるゝ。
▲東「いや。私は何も芸は御座らぬ。
▲太「夫は気の毒ぢや。何なりとも芸があれば抱へさせらるゝが。何もないか。思(おもひ)出してみやれ。
▲東「いやいや。何も御座らぬが。若(もし)これも芸になりましよか。
▲太「何でおりやる。
▲東「人を馬にする事をえてゐます。
▲太「これは変つた事ぢや。其の通り申さう。申しまするは。何も芸は御座らぬが。人を馬にする事を得てゐると申します。
▲シテ「何ぢや。人を馬にするといふか。
▲太「中々。
▲シテ「これは珍しい芸ぢや。急いでして見せいといふて。これへ出せ。
▲太「畏つて御座る。さアさアこれへ出て。急いで馬にして見しやれ。
▲東「畏つて御座る。どなたなりともお人を下されませ。
▲シテ「されば。誰を馬にせうぞ。誰彼といふても人がない。太郎冠者馬になれ。
▲太「これは迷慈な事で御座る。私も久々御奉公致しました。最早(もはや)御取立(おんどりたて)に預り。侍にもならうと存じます所に。馬になつてよいもので御座るか。これは御許(ゆる)されませ。
▲シテ「はて扨。主(しゆう)の為には命さへ棄つる。急いで馬になれ。悪うは遣(つか)うまいぞ。
▲太「左様に御意なさるれば。是非も御座らぬ。なりませうが。扨も扨も迷惑な事かな。喃(なう)々。其方(そなた)もまた芸能こそ多いに。馬を人にしてこそよかりけれ。人を馬にするといふ事があるものか。身共が馬になつたらば。其方(そなた)口とりをするであらう。必(かならず)重い物を負(おふ)せて給(たも)るな。馬屋に独(ひとり)居たらば淋しからう。どれぞ腰元衆の中(うち)を一人(り)馬にして。身共の傍に置いてたもれ。其の中(うち)駒でも出てくれば。頼うだ人の為でおりやる。頼むぞ。
▲東「如何にも。気遣(きづかひ)召さるな。身共が悪うは致すまいぞ。
▲シテ「さアさア。早う馬にせい。
▲東「畏つて御座る。これへ出やれ。
▲東[色詞]「いでいで馬になさんとて。先(まづ)楊梅(やまもゝ)の皮を水にてとき。顔にぬれば。顔より馬にぞなつたりける。
▲シテ「はア。誠に顔から馬になつたわなつたわ。さアさア。皆どこも馬にして見せい。
▲東「畏つて御座る。今度は手足も皆馬に致しましよ。手綱を拵(こしら)へ。乗る用意をなされ。
▲シテ「心得た心得た。
▲東[色詞]「尚(なほ)々馬になさんとて。陳皮(ちんぴ)乾薑(かんきやう)色々の。加薬(かやく)を取(とり)かへ取(とり)かへ塗りけれど。馬には更にならざりけり。(東逃げ入る){*1}
▲シテ「どうどうどう。
▲太「若(も)し私で御座る{*2}。
▲シテ「太郎冠者か。
▲太「中々。
▲シテ「最前の奴は。たらしめぢや。逃(にが)すな。やれ逃ぐるわ。やるまいぞやるまいぞやるまいぞ。
底本:『狂言全集 下巻 狂言記拾遺』「巻の四 七 人馬」
校訂者注
1:底本は「東逃け入る」。
2:底本のまま。
2:底本のまま。
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