しゆでう

▲シテ「罷出でたるものは。辺土に住居(すまゐ)致す僧で御座る。某(それがし)。何時ぞや都へ用事ありて上り。其の次手(ついで)に挂杖(しゆじやう)を誂へ置きました。漸(やうや)う頃日(このごろ)は出来時分で御座る程に。とりに参らうと存ずる。先(まづ)。そろそろと参らう。やれやれ。出家程世に楽なものは御坐らぬ。今日も又。行先にどれになりとも逗留致し。仏をして戻らうと存ずる{*1}。やア。参る程に。彼(か)の挂杖屋はこれで御座る。物もう。御亭主内に御座るか。
▲亭主「表に案内がある。どなたで御座る。
▲シテ「いや。身共で御座る。
▲亭主「やア。これは何時ぞや挂杖誂へさせられた御坊か。
▲シテ「中々。左様で御座る。何とも早(はや)出来ましたか。
▲亭主「如何にも。よう出来ました。夫(それ)に待(また)せられ。見せましよ。
▲シテ「心得ました。見せて下され。
▲亭主「これこれ。これで御座る。
▲シテ「扨も扨も。此は能(よ)う出来ました。身共の誂(あつらへ)に少しも違(ちがひ)はないさうな。
▲亭主「随分念の入りました。夫(それ)に就き。此方(こなた)に何時ぞや御目に掛(かゝ)つた時より。如何にしても殊勝に存ずる。何と此の挂杖に就いて。一句持つて参らうか。
▲シテ「これは亭主奇特で御座る。何と何と。
▲亭主「如何なるか是白木の挂杖。
▲シテ「漆なければ塗る事もなし。
▲亭主「善哉(ぜんざい)善哉。
▲シテ「扨は花塗(はなぬり)になさるゝか。
▲亭主「此の挂杖折れての後は如何に。
▲シテ「一念はつくとも二念をつがず。
▲亭「扨も扨も。此方(こなた)は愈(いよいよ)殊勝千万に御座る。身共も斯様(かやう)の職を致しますれど。常々出家の志(こゝろざ)して御座る。先(まづ)奥へ通らせられ。一飯(ぱん)も進ぜ。其上愈(いよいよ)有難い教化(けうげ)にも預りたう御座る。先(まづ)通らせられ。
▲シテ「如何にも。人をすゝむるは出家の役で御座る。成程通りましよ。其の挂杖もこれへ下され。心得ました。
▲亭「喃(なう)々御出家。内(ない)々私も只今申す通り出家の望(のぞみ)で御座る程に。此方(こなた)の弟子になされて下され。共々に。国々修行致したう御座る。
▲シテ「如何にも身共の弟子に致して。只今髪を剃り出家に致すは。何より易い事で御座る。さりながら。斯様の事は。篤(とく)と親類兄弟又は御内儀とも能う相談召され。苟且(かりそめ)にふと出家しても。後悔する事もある物で御座る。出家になれば夫々の法(のり)を勤め。経陀羅尼も覚えねばならず。身持(みもち)がとつと六ヶしう御座る。さりながら。勤むべき事さへ勤むれば。外(ほか)に心に苦労はない。どれへなりとも参りたい方(はう)へは。心の儘に参り。とまり度(た)い所には宿(とま)る。何に付けても。惜しい欲(ほ)しいと思ふ貪欲を離れてからは。中々心に苦がなうて。此の世からの仏で御座る。
▲亭「仰せられた通りで御座る。夫故。私も俄(にはか)の事でも御座らぬ。常々の望で御座る{*2}。成程万事心得て居ます。是非共弟子にして下され。
▲シテ「何と。篤(とく)と合点が参つたの。
▲亭「中々。合点致しました。
▲シテ「夫なら。剃刀をあてましよ。親類衆お内儀も同心で御座るか。
▲亭「成程。女共も日比(ひごろ)に云(いひ)聞かせて置きました。身共次第で御座る。
▲シテ「夫ならよう御座る。さらば用意なされ。
▲亭「心得ました。月代(さかやき)を揉みましよ。
▲女「良人(こちのひと)は。最前挂杖を誂へた出家が取りに参られた。表へ出られたが。何をして居らるゝ。暇がいる。見に参りましよ。やア。これは良人(こちのひと)。我御料(わごりよ)は坊主になるか。夫(それ)は誰に問ふてなるぞ。茲(こゝ)な坊主も。能う髪を剃(そら)うと思ふなア。腹立(はらたち)や腹立や。先(まづ)此の剃刀を此方(こち)へおこせ。
▲シテ「これは何と召さる。お内儀も合点ぢやといはれた。
▲女「未(まだ)其のつれを云ふか。妾(わらは)を何とせうと思ふぞ。坊主になる。己(おのれ)は先(まづ)何処からうせた。あちへ失せぬか。いなぬかいなぬか。腹立や腹立や。
▲シテ「これは何とするぞ。身共は無理に勧めはせぬ。内(ない)々望ぢやと云はれた。
▲女「まだ其の様な事いふか。おのれ売僧(まいす)坊主奴(め)。やらぬぞやらぬぞ。
▲シテ「あゝ悲しや。許せ許せ。
▲女「やい。わ男。能う妾に合点もさせいで。坊主にならうと云ふた。妾は何となれと思うて。腹立や。
▲亭「いや。最前の出家が。坊主は楽な者ぢや。なれと云ふたに由(よ)つて。剃(そら)うかと思うて。
▲女「また其のつれな事いふか。己何とせうぞ。腹立や腹立や。
▲亭「最早(もはや)思(おもひ)止まるぞ。やれ許せ許せ。
▲女「あゝ腹立や腹立や。どちへ失せる。やるまいぞ。喃(なう)腹立や腹立や。

底本:『狂言全集 下巻 狂言記拾遺』「巻の四 九 しゆでう」


校訂者注
 1:底本のまま。
 2:底本に句点はない。