ゑさし十王
▲エンマ[次第]「地獄のあるじ閻魔王。地獄のあるじ閻魔王。[下]六道にいざや出(いで)うよ。
やいやい。眷属共居るか。
▲三人鬼「はア。これに居ります。
▲エン「罪人(ざいにん)が参つたら。地獄へ責落(せめおと)し候へ。
▲三人「畏つて御座る。
▲シテ[次第]「罪もつくらぬ罪人(ざいにん)の。罪もつくらぬ罪人の。たれかはよつてせかうよ。
[詞]是は娑婆に隠れもない。清頼(きよより)と申すゑさしで御座る。我寿命の程も定(さだま)りけるが。無常の風に誘はれ。只今冥土へ赴き候ふ。
[謡]住みなれし。裟婆の名残をふりすてゝふりすてゝ。足に任せて行くほどに行くほどに。六道に早く着きにけり。
[詞]これは早(はや)六道の辻に着いて御座る。これより見計らひ。極楽へ参らばやと存ずる。
▲オニ「はア。いかう人臭い。さればこそ。罪人が来た。先(まづ)此由(よし)申上(まをしあげ)う。如何に申(まをし)候ふ。一段の罪人が参りて候。
▲エン「急ぎ責めおとし候へ。
▲オニ「畏つて候{*1}。如何に罪人。地獄遠きにあらず{*2}。極楽遥(はるか)なり。急げ急げとこそ。やいやい。汝は常の罪人と変り。興(きやう)がつた風姿(なり)。娑婆では何といふた者ぞ。
▲シテ「某(それがし)は。娑婆に隠れない清頼といふゑさしで御座る。
▲オニ「ゑさしならば。明暮(あけくれ)殺生して罪が深からう。地獄へ責め落して呉(くれ)うぞ。
▲シテ「いやいや某は左様に罪の深いものでは御座らぬ。極楽へやつて下されい。
▲オニ「いやいや。先づ閻魔王へ伺はう。如何に申し候。
▲エン「何事にてあるぞ。
▲オニ「罪人は。娑婆に隠れもないゑさしにてあると申す程に。一入(しほ)殺生して罪が深く御座あらうずるあひだ。地獄へ落さうと申し候へば。左様の者にてなきと申し候ふが。何と仕(つかまつ)らうずるぞ。
▲エン「さあらば。其の罪人の此方(こなた)へ呼び候へ。
▲オニ「畏つて候ふ。こりやこりや。閻魔王の召す。此方(こなた)へ来(きた)り候へ。
▲シテ「畏つて御座る。
▲オニ「罪人の召して参り候ふ。
▲エン「如何に罪人。汝は娑婆にて明暮(あけくれ)諸鳥をさし。大悪人にてある間。地獄へ落(おと)さうずるぞ。
▲シテ「仰(おほせ)御尤に候へ共。鳥をさし。鷹と申すものに食はせて養ひ候ふ程に。余り咎(とが)にてはなく候ふ。
▲エン「扨は。鷹といふも同じ鳥にてあるよな。
▲シテ「中々。左様で御座る。
▲エン「夫(それ)ならば。余り汝が咎でもない。
▲シテ「御意の通り。鷹が咎でこそ御座れ。私の咎では御座らぬ。極楽ヘやらせられて下され。
▲エン「夫ならば。此の閻魔王も。終(つひ)に鳥といふ物の味を知らぬ程に。汝が持つた棹でさいて。閻魔王に振舞へ。夫なら。汝が望(のぞみ)のやうにして取(とら)せうぞ。
▲シテ「夫は何より安い事で御座る。さらば。鳥をさいて進上申しましよ{*3}。
[謡]いでいで諸鳥をさゝんとて
[地]いでいで諸鳥をさゝんとて。死出の山路の南はらより。鳥共あまた飛び来るをば。見るより早くちゆうにてさいてぞ取つたりける。
さらば此鳥を焼鳥にして。進ぜませう。さらば参りませ。
▲エン「どりやどりや食うて見よ。めりりめりりめりり。扨もいかう旨い事かな。
▲シテ「さらば眷属達も参れ参れ。
▲オニ「心得た心得た。めりりめりりめりり。これはこれは。旨い事かな旨い事かな。
▲エン「扨も扨も。いかう旨い物ぢや。此の様な旨い物をくれた程に。暇(いとま)を取(とら)すぞ。娑婆へ帰り。三年(とせ)が間諸鳥をさいて暮(くら)せ。
▲シテ「これは有難い事で御座ります。
▲エン[謡]「いでいで暇を取らせんとて。
[地]取らせんとて。娑婆に帰り三年(とせ)が間諸鳥(もろとり)をさして。鶴雁(かり)雉子(きゞす)鴨小鳥も慥(たしか)にとり来べしと。仰(おほせ)を委(くはし)く承りて帰りければ。閻魔王も名残を惜(おし)み。玉(たま)の冠を清頼に与へ給ひければ。忝(かたじけな)くも頂戴致[クル]し頂戴致して。二度(ふたゝび)娑婆へぞ帰りける。
底本:『狂言全集 下巻 狂言記拾遺』「巻の四 十 ゑさし十王」
校訂者注
1:底本に句点はない。
2:底本、「地獄遠きにあらず」から「急げ急げとこそ」まで傍点がある。
3:底本に句点はない。
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