腰いのり
▲シテ山伏{*1}「貝をも持たぬ山伏が。貝をも持たぬ山伏が。みちみち嘯(うそ)をふかうよ。
[詞]これは出羽の国羽黒山(さん)より出たる山伏で御ざる。某(それがし)大峯葛城山(さん)の役目を相勤め。只今本国へ罷下(まかりくだ)る。先(まづ)急いで参らう。又爰(こゝ)に身共の祖父御(おほぢご)を持(もつ)て御ざるが。久々見舞ませぬ。此度は見舞はうと存ずる。総じて山伏と申(まをす)は難行苦行を致(いたす)に依つて。行力(ぎやうりき)さへ達すれば。忽(たちまち)飛(とぶ)鳥も祈り落(おと)す事で御ざる。やアはやこれぢや。先(まづ)案内を乞はう。物も案内もう。
▲冠者「表に案内とある。誰様(どなた)で御ざる。
▲シテ「いや身供ぢや。
▲冠者「やア郷(きやう)の殿で御ざるか。好うこそお出なされました。久々御目にかゝりませぬが御息災で御目出たう御ざります。
▲シテ「それそれ我御料(わごりよ)も無事で一段ぢや。何と祖父御(おほぢご)には御無事で御ざるか。
▲冠者「中々御息災に御ざります。明暮(あけくれ)足下(こなた)の事ばかり仰出(おほせいだ)されますぞ。
▲シテ「さうであろ。先(まづ)御目にかゝりたい。身共の参つた通りをおしやれ。
▲冠者「畏つて御ざる。其通り申(まをし)ましよ。それに御ざりませ。申(まをし)々祖父御(おほぢご)様。郷の殿の御見舞なされて御ざる。
▲オホヂ「何と云ふぞ。今日は好い日和ぢやと云ふか。
▲冠者「いやいや左様では御ざりませぬ。郷の殿の御見舞なされて御ざる。
▲オホヂ「何と云ふぞ。郷の殿が見舞はつた身共は最早(もはや)年寄(より)たれば腰が痛い。床机をくれい。
▲冠者「畏つて御ざる。お床机で御ざる。
▲シテ「申(まをし)祖父御(おほぢご)様。郷の殿が見舞ひ申ました。
▲オホヂ「何ぢや。郷の殿が見舞(みまふ)た。我御料(わごりよ)は何方(どち)風が吹いて見舞はしました。彼(あ)の郷の殿は飴が好(すき)であつた。飴を参らせ。
▲シテ「まだ身共が幼少の時の事を忘れずに仰せられます。私も毎年(ねん)毎年大峯葛城の山の役を相勤めますに依り。一円暇を得ませいで御見舞も申(まをし)ませぬ。やア太郎冠者。見れば祖父御(おほぢご)の腰が殊外(ことのほか)曲(かゞ)うだが。彼(あれ)は何時もあれか。
▲冠者「なかなか何時とても彼(あ)の如(ごとく)で御ざる。殊の外曲(かゞ)ませられて{*2}。御苦労なと仰せられます。
▲シテ「然(さ)うであろ。あれは御苦労にあろ。身共が日常(ひごろ)の行力で。彼(あ)の腰を祈り直して進じませう。とおしやれ。
▲冠者「畏つて御ざる。申(まをし)々祖父御(おほぢご)様。郷の殿の仰せられますは。足下(こなた)の御腰が曲(かゞ)ませられて御苦労に見えます。行力を以て祈直して進ぜましよと仰せられます。
▲オホヂ「何と云ふぞ。此祖父(おほぢ)が腰を。郷の殿が行力で。祈直さうと云ふか。
▲冠者「左様で御ざります。
▲オホヂ「何卒(なにとぞ)行力で直ることなら。祈つてくれさしめ。
▲シテ「畏つて御ざる。追付(おつゝけ)祈(いのり)ましてよう致して進ぜましよ。夫(それ)山伏といつぱ。山に起臥(おきふす)に依つて山伏なり。兜巾(ときん)といつぱ。布切(ぬのきれ)一尺ばかり黒く染め。襞襀(ひだ)を取りて戴(いたゞく)に依つての兜巾なり。又此数珠は苛高(いらたか)にては無うて。むざとした数珠珠(じゆずだま)を繋ぎ集め。苛高と名付く。斯程(かほど)貴(たつと)き山伏が。一祈(いのり)祈るものならば。などか奇特のなかるべき。ぼろおんぼろおん。いろはにほへと。ぼろおんぼろおん。何と何と太郎冠者。奇特を見たか見たか。
▲冠者「扨も扨も奇特千万。驚き入(いり)まして御ざる。
▲オホヂ「やいやい太郎冠者。久しうて月星を拝(おが)うで。此様な嬉しい事は無い。あら嬉しや嬉しや。
▲冠者「申(まをし)々殊外(ことのほか)御機嫌で御ざります。
▲シテ「いかにも身共も満足ぢや。
▲オホヂ「やいやい。太郎冠者。これは何時まで斯(か)うして置くことぢや。
▲シテ「何時迄も足下(こなた)の一生左様で御ざります。
▲オホヂ「なうなう軽忽(きやうこつ)や軽忽や。此様にして一期(ご)居らるゝものか。元の様にして返(か)やせと云へ太郎冠者。
▲冠者「申(まをし)々。只今語られたを御聞きなされましたか。
▲シテ「成程聞いた。余り身共が行力が強さに祈り過(すぎ)た。今度は背後(うしろ)から祈つて。好い加減にして差上(さしあげ)う。
▲冠者「申(まをし)々。此度は背後から祈つて。好い加減にせうと仰せられます。
▲オホヂ「早う祈れ早う祈れ。
▲シ「さらば祈らう。行者は加持に参らんと。役(えん)の行者のあとをつぎ。苛高数珠をおし揉んで。も一ト祈り祈るなら。などか奇特のなかるべき。ぼろおんぼろおん。橋の下の菖蒲は誰(た)が植ゑた菖蒲ぞ。ぼろおんぼろおん。これはこれは又祈り過ぎた。
▲オホヂ「やいやい郷の殿は。祖父(おほぢ)を見舞には来(こ)いで。嬲(なぶり)に来たと見えた。元のやうにして返せと云へ。あゝ悲しや悲しや。
▲シ「これこれ太郎冠者。これは又祈り過ぎたといへ。某が行力が強さぢや。又前から祈らう程に。汝は背後から前へかげんにつゝぱりをかやれ。
▲冠者「畏つて御ざる。
▲シ「如何に悪心の深い祖父(おほぢ)の腰なりとも。明王(みやうわう)の索(さく)にかけて祈るなら。などか奇特のなかるべき。ぼろおんぼろおんぼろおんぼろおん。
▲三人「ひやあり。やアり。ぽつはひひやろひい。
底本:『狂言全集 下巻 狂言記拾遺』「巻の五 四 腰いのり」
校訂者注
1:底本、「嘯をふかうよ」まで傍点がある。
2:底本は「曲ませられて 御苦労なと」。
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