鎌倉旧蹟地誌
山名留三郎編

鎌倉の称、『古事記』「景行帝」の條に、「足鏡別王は鎌倉の別が祖。」と見ゆ。『古風土記』残本に、「鎌倉は屍蔵(かばねくら)なり。」と見ゆ。「神倭磐余彦天皇、東夷を平らげんと欲し給ひし時、大山に当りて一国あり。其国の夷、天皇に矢を放たんとするの勢あるを以て、天皇之を察し給ひ、毒を箭に塗りて自ら射給ひ、箭に中りて死ぬるもの、万を以て数ふ。其屍、積みて山をなす。今の鎌倉の山、是なり。鎌倉なるものは屍蔵の訛(なま)りなり。」と。『詞林釆葉抄』には、「大職冠鎌足、鹿嶋神に参詣の帰途、由井里に宿し、霊夢に感じて、大蔵の松岡に鎌を埋めしより、鎌倉の唱あり。」と云ふ。

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   〇沿革略史
中臣鎌足の後裔・染屋太郎太夫時忠、文武天皇の御宇より、聖武天皇神亀年中まで、鎌倉に居住して、東八箇国総追捕使となり、東夷を鎮し、国家を守ると。其後、平将軍貞盛の孫・上総介直方、此に居住し、伊予守源頼義、相模守に任じ東下せし時、直方が婿となり、義家を生み、鎌倉を譲りしより、遂に源家に伝ふるを得るなり。
源頼義
源義家
源為義
  義家の孫。義親の子。義親、反を以て誅せらる。義家、因りて為義を以て嗣となす。
源義朝
  下野守。坂東に生長し、驍武勇略ありと云ふ。
源頼朝
  治承四年八月、石橋に義兵を挙げ、敗走して安房に至り、安房(安西景益)上総(平広常)下総(千葉常胤)を徇へて其年十月鎌倉に遷り、平氏を亡して幕府を鎌倉に開き、後鳥羽帝文治二年、始めて兵馬の権を執り、土御門帝正治元年、薨ず。〇二十年。
源頼家
  頼朝の子。建仁二年、将軍となる。元久元年、北條時政の為に、伊豆の修善寺に弑せらる。〇五年。
源実朝
  頼家の弟。元久元年、将軍となる。承久元年、公暁の為に弑せらる。〇十七年。
 以上、鎌倉三代将軍と唱ふ。
藤原頼経
  道家の子。順徳帝承久二年より、後嵯峨帝寛元元年まで。〇二十四年。
 執権
  〇北條義時[時政の子]
  〇北條泰時[義時の子]
  〇北條経時[泰時の孫。時氏の子]
藤原頼嗣[頼経の子]
  後嵯峨帝寛元二年より、後深草帝建長三年まで。〇八年。
   北條経時
  〇北條時頼[経時の弟]
宗尊親王
  後嵯峨帝第二子。後深草帝建長四年より、亀山帝文永二年まで。〇十四年。
   北條時頼
  〇北條時宗[時頼の子]
惟康親王
  宗尊親王子。亀山帝文永三年より、伏見帝正応元年迄。〇廿三年。
   北條時宗
  〇北條貞時[時宗の子]
久明親王
  後深草帝第三子。伏見帝正応二年より、後二條帝徳治二年まで。〇十九年。
   北條貞時
  〇北條師時[時頼の孫。宗政の子]
守邦親王
  久明親王の子。花園帝延応元年より、後醍醐帝元弘三年まで。〇二十六年。
   北條師時
  〇北條高時[貞時の子]