建武中興
成良親王
  後醍醐帝第七子。建武元年十二月、上野太守となり、出でゝ鎌倉を鎮す。〇二年。
  足利直義[尊氏の弟。相模守となりて、親王の輔佐たり。]
    建武二年秋七月、北條時行の鎌倉を攻むる、直義、親王を奉じて、出て走る。
 足利義詮
   尊氏の子。建武二年より、後村上帝正平四年(北朝貞和五年)まで。〇十六年。建武二年十月、尊氏、時行を破り走らし、自ら征東将軍東国管領と称す。十二月、官軍を追蹤して西上するや、義詮を留めて鎌倉を守る。
管領
  相模、伊豆、武蔵、安房、上総、下総、常陸、上野、下野、甲斐、信濃、越後、佐渡、(明徳二年、氏満の時)陸奥、出羽を加ふ。凡て十五国を管領す。
 足利基氏
   尊氏第二子。正平四年より、正平二十二年(北朝貞治六年)まで。〇十八年。
 足利氏満
   基氏の子。正平二十三年より、後小松帝応永五年まで。〇三十一年。
 足利満兼
   氏満の子。応永六年より、同十六年まで。〇十年。
 足利持氏
   満兼の子。応永十七年より、後花園帝永亨十一年まで。〇三十年。
   永亨十一年、足利義教、上杉憲実をして之を永安寺に殺さしむ。是より、成氏に至るまで、中絶九年なり。
  上杉憲実
    弟清方をして、己に代りて執事たらしむと雖も、其実、己れ自ら関東の政務を執るなり。
 足利成氏
   持氏の子。後花園帝文安五年より、康正元年まで。〇八年。
   康正元年、上杉氏と隙を生ず。足利義政、今川範忠をして之を討たしむ。成氏、下総の古河に走る。是より成氏の子孫を古河公方と云ふ。成氏より政知に至るまで、二年の中絶、是の後、関東公方、両分するものゝ如し。
   渋川義鏡[関東探題]
   上杉房顕[関東管領]
     両人、仮りに関東の政務を執る。
 足利政知
   将軍義政の弟。長禄元年より、後土御門帝延徳三年まで。〇三十五年
 管領
  上杉房顕[憲忠弟]
  上杉顕定[越後上杉房定子]
     政知滅亡の後、顕定、管領を以て関東を統ぶるものゝ如しと雖も、両上杉相抗して下らず、関東兵乱、全く主帥なし。然れども、後北條まで聊か其後を附す。
  上杉顕定
  上杉憲房[顕定子]
  上杉憲政[憲房子]
    後土御門帝明応元年より、後奈良帝の天文二十年まで。〇六十年
   古河公方
     康正元年より、天文二十一年まで。〇九十八年間
  足利成氏
  足利政氏[成氏の子]
  足利高基[政氏の子]
  足利晴氏[高基の子]
  足利義氏[晴氏の子]
    天文二十一年、北條氏康、古河を陥(せめやぶ)り、晴氏・義氏執へられ、後、関宿に徙さる。

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