〇鶴岡
抑(そもそも)、此地を鶴岡と唱ふる事は、治承四年、源頼朝、由比郷鶴岡に鎮座ありし若宮を、此に移し、旧に依りて鶴岡若宮と称す。又、建久二年、若宮の背後松ヶ岡に、稲荷社(丸山稲荷は、一に酒宮と云ひ、十一面観音と、大工遠江と云へる者の寄進せし酔臥人の像{**1}を祭れり。後、其の木像は廃せりとぞ。)ありしを、北方・丸山に移し、其の蹟に宮祠を建て、八幡を勧請し、之を鶴岡八幡宮と称す。又、北方の山を大臣山と云ふ。昔、大職冠鎌足、鹿嶋参詣の時、此由比里に宿し、霊夢に感じ、年来所持する鎌を此に埋む。故に此山を、今に至るまで大臣山と云ひしとぞ。狻踞峯{**2}は、峯の形、獅子に似たるを以て名とす。頂上を升仙台と云ふ(文殊を升仙如来と云ひ、獅子の項(うなじ)なるより名号とせり)。
〇八幡宮
後冷泉帝康平六年(千七百二十三年)八月、源頼義、石清水の神を当郡由比の郷に勧請す(前九年の役、頼義、厨川を囲み、馬を下り、遥かに皇城を拝し、八幡神に祈り、自ら神火と称し、之を投ず。楼・櫓・壘・柵、一時に灰燼となる。遂に之を陥(せめやぶ)る。故に、鎌倉に帰り、由井郷に創建す)。永保元年二月、義家、修理を加ふ。治承四年十月、頼朝、之を松ヶ岡に遷せり。今の下宮、是なり。建久二年三月、神殿以下、回禄に罹る。四月、後背の山上に新宮を営作す。今の上宮、是なり。十一月、上下両宮、造営成就して、是より両宮となれり。
承久元年正月、実朝、右大臣拝賀の為(た)め、参宮あり。神拝畢りて退下の時、石階の辺にて、別当公暁の為に害せらる{*1}。永亨十年六月、足利持氏の長子・賢王、神前にて元服の儀を調へ、義久と号す。是、京都・鎌倉確執の濫觴なり。
大永六年十二月、里見左馬頭義弘、房州より押し渡り、鶴岡宝蔵を破却す。北條氏綱、兵を出して追討す。義弘、倉皇、舟に取り乗り、引き退く。永禄四年、上杉輝虎、小田原を伐つの時、鶴岡に参詣して、管領の拝賀を行ふ。下向の時、総門の辺にて、成田下総守長康が無礼を咎めて之を撲(う)ち、是より関東諸将、叛き去るもの多し。一(あるい)は曰く、「輝虎、小田原へ発向するは、氏康退治の為に非ず。管領となれば、若宮に拝賀の先例ある故なり。」と。
〇白旗明神社
本社の西に在り。頼朝を祀る。木像あり、左右に住吉聖天を合祀す。頼家の創建なり。今は、下宮の東、薬師堂の蹟に在り。明治二十年九月、此に移す。
天正十八年、豊臣秀吉、小田原凱陣の時、当社に詣で、白旗神像を見て曰く、「凡そ本邦広大なりと雖も、民間より起り、天下を一統し、四海を掌に握るは、足下と我とのみ。然れども足下は、祖先皆、関東の守護たり。百姓皆、恩沢を蒙らざる事なし。故に、足下事を挙ぐ、関八州響応す。我は匹夫より起りて、天下一麾に帰す。是、我は足下より優れり。」と。
又、藤沢に白旗明神社あり。社地を亀形山と云ふ。文治五年、廷尉義経、奥州にて自殺し、其首級を此に埋むと云ふ。
〇柳営明神社
白旗社の西にあり。右大臣実朝を祀る。将軍頼経の創建と云ふ。明治二十年九月、白旗社と合祀す。
〇八つ橋
二王門前の小流に架す。
二王門、一(あるい)は八足門と云ふ。
〇池
二王門前に在り。中間に橋二(赤橋・新橋)を架す。池中に嶋あり。東の方に三、西の方、四あり。相伝ふ、「頼朝、平氏追討の頃、夫人・政子、大庭景義をして之を鑿(うが)たしめ、東西各四嶋を築きしが、東の一島を壊(やぶ)りて三島となす。三を産、四を死として、東方より西方を滅すの義に象(かた)どり、又、東の池に白蓮、西の池に紅蓮を植えて、源平の色を表す。是又厭勝{**3}の義なり。」と云ふ。元弘の乱、義貞、首実検の時、此池にて血を洗はしむと云ふ。
二行割書注
1:公暁、階下西方、銀杏の陰に匿れ、実朝を害すと。今尚(な)をあり。恐らく、後人の樹ゆる所か、左程の老樹に見えざるなり。(〇八幡宮)
校訂者注
1:『新編相模国風土記稿』「鎌倉郡巻之五 丸山稲荷社」に従い訂正。
2:『新編相模国風土記稿』「鎌倉郡巻之二 鶴岡」に「狻踞峰{佐武古保宇}」とある。「狻踞」は「獅子がうづくまる」の意。
3:「厭勝(えふしやう)」は「まじない」の意。
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