〇赤橋
前の池に架す石の反橋なり。昔時は板橋にして、朱塗なり。故に名づく。鎌倉将軍、社参の時は、此橋にて下馬あり。新橋、赤橋の側に架する板橋なり。
〇新宮(いまみや)
大臣山の西麓にあり。宝治元年四月、後鳥羽院の尊霊を勧請し、順徳院及護持僧長賢を合祀す。
二十五院[別当]
八幡宮の西北に在り。所謂雪下{**1}の僧舎なり。大別当坊・雪下山八正寺、若宮別当と称す。頼朝、八幡社建立の時、伊豆走湯山の僧・専光坊良暹を以て当職とす。建保五年六月、公暁を以て別当とす{**2}。初めの名、善哉。建暦元年九月、落飾して公暁と称す。則ち、第四世別当なり(第一・円暁、第二・尊暁、第三・定暁、第四・公暁)。第廿六世まで詳(つまびら)かなり。文明の後(文明は、成氏、政知と戦ふの頃なり。)は、関東兵乱、永正(永正。後柏原帝の年号、足利義澄、将軍たり。)の頃、断絶せしなり。
応永廿四年正月、足利満隆・同持仲・上杉禅秀以下、此別当坊に於て自害す。
〇飯山両社権現
馬場町鴬谷に在り(神主の宅)。大江広元・毛利季光(広元四子)の二霊を祀る。毛利氏の居宅は、愛甲郡飯山にありしを以て、此神号ありと。古は、鳥合原(鳥合原は、鶴岡東鳥居外の畠を云ふ。高時、雞を合せ、犬を挑み合せし地なり。又、流鏑馬場の東西に鳥居あり。故に名づくと。)にありしを、嘉吉三年六月、永井儀左衛門元勝(広元之裔)、此に遷す。祠下に石棺あり。内、銅板壱枚・銅鏡一面を納む(此所に五輪塔ありて、面に「蔵人従五位下大江季光朝臣之墓宝治元年歳次丁未六月五日」と記す。文政六年、毛利家より建つ)。
〇置石町[八幡宮の置石あるを以て名づく。]
鶴岡赤橋より南、由比ヶ浜に至るまでの直道を呼ぶ。古は、若宮大路と唱ふ。文治元年五月、前内府宗盛父子を幕府に召すの時、此道を引き廻して至ると。建保元年五月、和田乱の時、武田五郎信光、朝比奈三郎義秀と此道に行逢ひ、互に戦はんとせしが、信光の男・悪三郎信忠、父の命に代らんとす。義秀、其志に感じ、戦はずして去る。又、北條修理亮泰時・同武蔵守時房等、三浦の輩と当所にて合戦す。抑、此地は、鎌倉中の大道にして、鎌倉全盛の頃は、市店櫛比{**3}し、鶴岡二の鳥居の前後には、武家の邸宅鱗差{**4}して、空隙の地なかりしとぞ。今は、八幡境内の近辺丈(だ)け、旅亭・民屋、纔に軒を連ぬ。古の余風、其万一を存すと云ふべし。
〇琵琶橋及下馬橋[琵琶小路は、一の鳥居と二の鳥居の間を云ふ{**5}。]
置石町の通、一の鳥居の南、琵琶小路にあり。因りて名づく。下馬橋は、置石町の西の方、小流に架す。橋辺に、鶴岡下馬牌あり。和田乱の時、泰時、兵を率ひて此橋辺を固む。後深草帝正嘉元年八月、大地震の時、橋辺より火焔燃出すと云ふ。文永八年(文永八年は、元使、始めて来るの時。十一年来り寇す。)九月、日蓮、捕らはれて、鎌倉を出る時、此橋にて下馬し、鶴岡を遥拝して、宗門の験を顕はさん事を乞ふと。
〇横小路及若宮小路
古は、横大路と称す。鶴岡赤橋の前より東折して、宝戒寺に至る通衢を云ふ。平宗盛父子、暫く輿を此に止む。和田の乱、義盛軍兵、此に襲ひ来る。若宮小路は、鶴岡赤橋の前より西に折れる横街を云ふ。元弘三年五月、新田義貞の兵、此所に攻め入りしを、長崎三郎左衛門入道思元、其子・為基と此に防戦す。
『太平記』曰、「浜の手破れて、源氏、若宮小路まで攻入たりと騒ぎければ、入道は、其子勘解由為基と、極楽寺の切通へ向ひて発す。已にして、敵は小町口に至り、父子が勢六百余人を中に取り籠めて、討たんとす。父子は、二所に打寄せて、之を懸け破り、又追ひ靡(なび)けて、七八度が程、揉みたりける。義貞の勢共、懸け散らされて、若宮小路へ引取りて、人馬に息をぞ継がせける{**6}」。
北朝文和元年閏二月、新田義興・脇屋義治、鎌倉攻めの時、小俣小次郎・三浦高道等、鎌倉勢と此所に合戦す。又、応永二十三年十月、足利満隆、此に陣取りしなり(『鎌倉大草紙』曰、「応永二十三年十月四日、新御堂殿、宝珠院より打立給ひ、御馬廻一千余騎{**7}、若宮小路に陣を取る。」)。
校訂者注
1:「社の西の町を、馬場小路と云なり。総名を雪下(ゆきのした)と云なり。」(『新編鎌倉志』巻之一「鶴岡八幡宮」)。「雪下村。由幾能志多牟良」(『新編相模国風土記稿』「鎌倉郡巻之十四 雪下村」)。
2:『新編相模国風土記稿』「鎌倉郡巻之九 鶴岡八幡宮 別当坊跡」に従い訂正。
3:「櫛比」(しつぴ)は「すき間なくならぶ」の意。
4:「鱗差」(りんし)は「つづく」の意。
5:『新編相模国風土記稿』「鎌倉郡巻之十四 雪下村 琵琶小路」に従い訂正。
6:『新編相模国風土記稿』「鎌倉郡巻之十四 雪下村 若宮小路」割注に従い訂正。
7:『鎌倉大草紙』(『群書類従 第二十輯』(1959訂正版 国会図書館D.C.)671頁)に従い訂正。
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