〇法華堂
 西御門村北の丘上にあり。頼朝の墳墓にして、元は持仏堂なり。故に土俗は頼朝の持仏堂とも称す(「当時の人、多く法華を信ず。故に、持仏堂を法華堂と称す」。此の『鎌倉志』の説{**1}、是にあらず。『東鑑』に「法華堂」と称するは、皆、墳墓の堂名なり。実朝・政子・義時共に、其卒後に葬る地の堂を称して「法華堂」と云ふ。生前、未だ此堂ある事を載せず。頼朝薨逝の後、其館後堂丘上を塋域とし、別に墳墓堂を創せず。生前の持仏堂を以て、直に墳墓堂となせしならん)。

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 和田の乱、義盛、火を幕府に放ちしかば、実朝、火を此に避く。宝治元年六月、三浦泰村、戦敗れて此に籠り、弟・光村と猶健闘して、自殺せり。
   〇源頼朝墓
法華堂後の山上に、五輪塔(高五尺余)一基を建つ。正治元年正月十三日に薨し、法号は武皇嘯原大禅門と云ふ。『東鑑脱漏』、嘉禄元年十月の條{**2}に、「西方丘上に右幕下{**3}の御廟を安んず」と見え、〇『塵塚談』(小川顕道著。元文年中の人。文化十一年、七十八歳になれり。)に曰く、「頼朝、五十三歳、正治元年正月十三日、薨逝せらる。鎌倉に墓あり。余、十七歳の時参詣せしに、長さ三尺許の苔むしたる五輪の石塔なり。然るに、薩州の大守、小石塔を見苦しと思ひ給ふにや、安永年間に、八九尺の五輪の塔に建替られたり。薩州先祖の墓も、東の方、二三十間奥にありけり。同時に建直し給ふ。日本総追捕使・頼朝の墓の小石塔を、そのまゝに置き給ふ時は、古(むか)しの質素の証拠にして、諸人の教訓にもなるべきに、建替給ふは、余り心なき事ともいふべし。」とあり。
   〇島津忠久墓
法華堂の後阜岩窟の内にあり。忠久は、頼朝の庶子なり。民部大輔惟宗広言が婿となりて、惟宗氏を冒す。始め、左兵衛尉となり、左衛門尉に遷り、後、豊後守に転じ、薩・隅・日の三国を領す。安貞元年六月十八日、卒す。六十歳。法名を浄光明寺得仏と云ふ(忠久は、比企判官能員妹・丹後局の生む所。局、政子の嫉妬を避けて、西国に赴き、住吉に生まる)。按ずるに、忠久の墓、此地に在る事、疑ふべし。今、碑に「安永八年已亥二月、薩摩中将重豪(しげひで)建之。承薩州侯之命、東都竜湖親和八十歳、謹書す。」と彫す。古墳を修飾せしにも非ず。此に頼朝の墳墓あるにより、新に遠祖の碑を造立せしものと覚ゆ。
   〇大江広元墓
同所にあり。広元は、中納言匡房の曽孫、式部大輔維光の子なり。始め、中原氏にて、安芸介に任じ、頼朝に仕へて、開国の功臣たり。其後、本氏に復し、累遷して陸奥守に任ず。嘉禄元年六月十日、卒す。七十八歳。按ずるに、広元の墳墓と土人の口碑に伝ふるのみ。其証、考ふる所なし。或は、「義時が古墳。」と云へり(元仁元年六月、此地に義時が墳墓を営ずる事、『東鑑』に見ゆ)。然して、其墓蹟、此辺、他に遺蹟なければ、其説近しと云へども、今、是非を決し難し。

校訂者注
 1:同説は『新編鎌倉志』「巻之二 法華堂」に見える。
 2:『東鑑脱漏』嘉禄元年十月廿日の條に見える。
 3:「幕下」(ばくか)は「近衛大将」「将軍」の異称。「右幕下」は頼朝を指す。

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