〇荏柄(えがら)天神社
二階堂村にあり(頼朝、奥州凱旋の後、奥{**1}の二階堂に擬して、二階堂を建立し、永福寺と号す)。往還の北側にあり。荏柄山と号す。菅公束帯の座像を祀る。大蔵幕府の鬼門の鎮神とす。享徳四年六月、今川上総介範忠、成氏追討とし、鎌倉に乱入し、神社仏閣を焼払ふ。此時、当社に入り、菅公自画の像を奪ひ去れり。其後、長享元年、先の画像、駿州より還座すと。
   〇和田平太胤長宅跡
荏柄天神社の前なり。胤長配流の後、昵近の諸士、之を所望す。然るに、義時に授与せらる(義時、胤長の在りし時より、之を奪はんとす)。義時、金窪左衛門尉行親・安東兵衛忠家に割き与ふ。各々、此に移住せりと云ふ。
   〇覚園寺{*1}
鷲峰山真言院と号す。四宗兼学。建保六年七月、北條義時、霊夢に因りて創立すと(『東鑑』曰、「建保六年七月九日、夢に薬師十二神将内戌神、枕上に来て曰く、『今年、神拝、無事なり。明年拝賀之日、供奉せしめ給ふこと莫かれ。』」云々。蓋し、明年は、承久元年なり。所謂、鶴岡の変、義時、仲章に剱を執らしめ、己(おの)れ、其禍を避くるの事なり)。元弘三年十二月、綸旨を下され、勅願寺とせらる。
 黒地蔵あり。火焼地蔵と云ふ。地蔵、地獄の苦を見るに忍びず。自ら己の身を焼き、黒色に変ずと云ふ。〇弘法護摩壇蹟、寺後の山上にあり。〇又、此辺山腹に、法王窟と唱ふる穴あり。其由来、詳(つまびら)かならず。〇大楽寺は、此寺の末なり。
   〇鎌倉宮
後醍醐帝第三皇子・護良親王を祀りし所なり。明治二年七月、詔して、二階堂の土牢の前の地を卜(ぼく)して、之を造営し給ふなり。同六年、官幣中社に列せられたり。抑、此地は、往昔、東光寺のありし所なり。東光寺は、医王山と号して、一の禅刹なり。建武元年十月、足利直義、親王を東国に下し、土牢を構へて禁獄せしは、即、此所にして(薬師堂谷とも云ふ。)、北方の山腹に窟あり。窟中二段に穿てり{*2}。二年七月、直義、淵辺義博をして生害し奉るとぞ。
 『太平記』曰、「建武二年五月三日、宮を直義朝臣に渡しければ、数百騎を以て路次を警固し、鎌倉へ下し奉りて、二階堂の谷に土の牢を塗りて、置進(まゐ)らせける。」云々。又曰、「建武元年十月、親王を二階堂の土牢に入れ奉り、二年七月、害し奉る。御在牢は、殆んど十ヶ月とぞ」。或は説をなして曰く{**2}、「『太平記』の文意を推考すれば、土もて塗り籠めたる獄舎を云へるにて、土穴中に禁籠せしにあらざるなり。又、『太平記』の淵辺義博が宮を弑する條に、『牢の御所に参る。』と記し、『御輿を庭に舁居ゑたるを御覧じて」などあるを見ても、土穴ならざるを識るべし。』と云ひけれども、元来、『太平記』は、当時足利将軍を尊むの余りより作りたる書にして、之を引きて証となすに足らず。余は、山腹に土窟を穿ちて、宮を置き奉ると思ふ。記して、以て後の識者を俟つ。

二行割書注
 1:大倉新御堂と称せり。今、此地の小名を薬師堂谷と唱ふ。京師・泉涌寺末。(〇覚園寺)
 2:濶(ひろさ)二間計。(〇鎌倉宮)

校訂者注
 1:「奥」は「奥州」、平泉を指す。『新編鎌倉志』「巻之二 永福寺旧跡」に、「【東鑑】に、文治五年十二月九日、永福寺の事始也。奥州に於て、泰衡管領の精舎を御覧ぜしめ、当寺の華構を企てらる。彼梵閣等並宇之中、二階堂あり。大長寿院と号す。専これを摸せらるに依て、別して二階堂と号す。」とある。
 2:『新編相模国風土記稿』「鎌倉郡巻之二十三 東光寺蹟」に、「足利直義。大塔宮ヲ東国ニ下シ。土牢ヲ搆ヘテ禁獄セシハ。即此所ナリ。」とあり、その割注に、「按スルニ。此太平記ノ文意ヲ正シク土穴中ニ禁籠セシト見違ヘ。此辺山腹ノ土穴ヲ。彼宮土籠ノ跡ナリト云フハ。後世附会ノ妄誕ニ近シ。太平記ノ文意ヲ推考スレハ。土モテ塗籠タル。獄舎ヲ云ルニテ。元ヨリ山腹ナトヲ堀穿シ。土穴トハ見ヱス。(中略)土穴ナラサルヲ識ヘシ。」とある。「同 東光寺蹟 大塔宮土籠蹟」には、「前寺廃跡。北方ノ山腹ニアリ。窟中二段ニ穿テリ。是建武二年。直義大塔宮ヲ。禁獄セシ所ト云ヘト。疑フラクハ前條ニ弁セシ如ク。後人ノ所為ニシテ。全ク附会セシモノナラン。」ともある。

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