〇理智光寺{*1}護良親王石塔
五峯山と号す。四宗兼学(京都泉涌寺末)。開山願行。嘉暦二年四月、伊豆山の妙静上人、当寺に入りて寂せり。又、山上に親王の石塔あり。


建武二年七月、淵辺義博、親王を害し奉りしとき、其御死相の不善なりとて、傍の薮の中に御首を投捨帰りしを、当寺の住僧、拾ひ参りて、宮の屍を並ばせて、山上に埋葬せしなり。仏殿に牌あり、「没故兵部卿親王尊霊」と記し、裡に「建武二年七月二十三日」とあり。
〇観音堂[杉本寺]
大蔵観音とも杉本観音とも云へり。大倉往還の北にあり。天平六年、行基剏建にて、坂東三十三観音{**1}の第一札所なり。十一面観音三軀にして、運慶作{*2}の前立あり。
延元二年十二月、北畠顕家及其他の軍勢、当国に乱入せし時、斯波家長・相馬重胤、堂内に入りて自殺す。〇『元弘日記裏書』曰、「延元二年九月、義良親王並顕家卿、西征の義有り。鎌倉・小坪・杉本・前浜・腰越に於て合戦有り。官軍皆利有り」。
〇永福寺蹟
土牢の北方に在り。今尚、柱礎、四隅に存す。故に、其前の小路を四ッ石小路と呼べり。文治五年、頼朝、奥州より凱旋の後、奥の大長寿院の二階堂に擬して、之を建つ。三堂山永福寺と号す。頼朝、土石の運送を監臨あり、上総五郎忠光、頼朝を刺さんとして縛せられしは、此時なり。
宝治元年六月、三浦泰村の法華堂に走る時、弟・光村、従兵八十余、此寺に在り。使者を兄所に遣して云く、「当寺、殊勝の城郭たり。此所に於て討手を待つべし。」と。泰村答云、「縦ひ城郭たりと雖も、遁るべからず。同じ事ならば、故将軍御影前に於て終を取らんと欲す。早く来り会すべし。」と。光村、寺門を出て、法華堂に向ふと。〇元弘三年、高時亡びし後、新田義貞、足利千寿王を倶し、須臾、当寺に逗留あり。建武二年八月、尊氏、時行討伐の時、直義と共に当寺に在りて、将士の賞罰を行ふと云ふ。
〇瑞泉寺
錦屏山と号す。臨済宗。嘉暦二年起立(開立より中興まで十年余なり)。開山は疎石(夢窓国師と称す。)、中興開基は足利基氏なり(法名、瑞泉院玉巌听公。貞治六年四月二十六日逝。歳二十八。当寺に埋葬せり。今猶、寺後の樹陰に基氏の墓あり。五輪塔なり)。氏満卒するに及び、域内に一寺を建つ。永安寺、是なり。永安寺は、蓬莱山と号す(氏満、法名を永安寺壁山禅公と号す)。
永亨十年十一月十一日、持氏、永安寺に帰る。上杉修理大夫持朝・大石源左衛門尉憲儀・千葉介胤直等、之を警固す。さながら禁籠の如し。十一年二月、持朝・胤直、兵を以て寺を囲み、持氏に自害を勧む。持氏の近習、寄手を懸け散し、悉く討死す。其間、持氏及弟・満貞、自害す。
長春院、持氏の塔所なり。詳かならず。今、名越別願寺に持氏の墓あり。其実、定かならず。勝光院、満兼の塔所なり。墳墓の所、詳かならず。〇遍界一覧亭跡、本堂北方の高山を云ふ。嘉暦三年の建立なり。元禄の頃、水戸光国卿、山上に一堂を建て、千手観音像を安んず。〇獅子舞ヶ峯、一に獅子舞ヶ谷と云ふ。寺の北にあり(登三町余)。山上に獅子頭の如くなる巌あり。故に名とす。
〇浄妙寺
稲荷山と号す。臨済宗。五山の第五なり。文治四年、足利上総介義兼の草創にして、極楽寺と号す。始めは密宗たり。義兼の男・左馬頭義氏、密宗を改めて禅刹とす。尊氏、大倉稲荷の神徳に報ずる為めに、山号を稲荷とし、父貞氏の法名を執りて浄妙と改む(法名、浄名寺貞山と云ふ)。義兼・義氏・貞氏の塔、皆堂後にあり。皆荼毘葬なり。
域内、光明院・大休寺・延福寺等ありしも、今皆なし。
二行割書注
1:理智光寺、今は廃跡のみなり。(〇理智光寺)
2:長七尺。(〇観音堂)
校訂者注
1:『新編相模国風土記稿』「鎌倉郡巻之二十三 観音堂」に従い訂正。
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