〇公方屋敷蹟
浄妙寺の東、芝野を云ふ。宝徳元年、新造の図に依れば、東西八十六間四尺、南北百一間四尺と云ふ。此歩積、八千八百十一歩余にして、丑寅の隅二丈四方を欠きたり(今世に、鬼門を欠く事、既に此頃に起るか)。東に上土門(広三丈五尺)、南に薬医門(広同上)、大路に向ふ西に広門(広同上)、浄妙寺に向ふ北は、山高く聳へたれば、門を明けず。是を大蔵御所と云ふ。尊氏、此に在住し、後、其子孫、関東の管領たる数世、此舘に在りて、兵馬の権を執れり。当時、管領を将軍或は公方、又、御所など称せしより、今に土俗、公方屋敷蹟と呼べり。古昔を推考すれば、鎌府草創の後、足利上総介義兼より、子孫、相襲ぎて居住せり(足利家太祖・義国(義国は、八幡太郎二男なり。)より、子・義康まで、下野の足利に居り。義兼より義氏・泰氏・頼氏・家時・貞氏まで六代、此所に居住す)。されば『鎌倉九代記』に{**1}、「尊氏の京都に向ふや、二男・千寿王を人質として、大蔵ヶ谷に留め置きし」と。又、『太平記』に、「元弘三年五月二日の夜半、千寿王、潜かに大蔵ヶ谷を落て、行方しらず。」と見ゆ。皆、当所の第なり。北條滅亡の後、千寿王、下野国より再び此に還住す。又、直義、将軍・成良親王の執権として関東に下向の時も、此に居住せしなるべし。建武二年、千寿王、叙爵せられ、名を義詮と改め、東国を管領し四年、延元二年、南朝奥州の国司・北畠顕家、鎌倉を攻むる時、義詮、此に在りて軍事を指揮せり。貞和五年{*1}、直義退隠(直義、不和を生じて南朝へ帰順の時なり)、義詮上洛の後は、弟・基氏、代りて関東管領となる。此に在住する十九年。貞治六年四月逝去し、其子・氏満、嗣げり。応永五年十一月、氏満逝し、其子・満兼嗣ぐ。同十六年六月廿九日夜失火して、殿宇、悉く烏有となる。其年十二月、造営成る。十七年、満兼逝し、持氏嗣ぐ。二十三年、禅秀の乱。持氏、一旦此を没落して、佐介{**2}に遁れ、又、駿州に走る。廿四年正月、禅秀平らぎて、持氏、又此に還れり。其後、京都と不和を醸し、永亨十年十一月、三浦時高等、当所を焼撃し、持氏没落に及ぶ。同十一年二月、永安寺に自殺し、其男三人、或は自害し或は斬られ、末子信濃に逃るより、此第廃蕪する事、凡そ九年なり。文安四年十一月、成氏管領となり、又此に住す。然るに、執事・上杉憲忠と不和の事より、享徳三年十二月、憲忠を殺し、康正元年六月、今川範忠、京都の下知を受け鎌倉に攻め入り、此第を始め神社仏閣等を焼払ふ。成氏敗れて、古河に遷る。此時より廃趾と成にけり。夫より後も猶、古河の公方、還住のをりあらんかとて、田圃も闢かず芝野となして置くなりと。遺民も随分其恩を思ふて慕ひしものか。桀の犬尭を吠ゆるの喩へにて、民は各々其の戴く所を尊ぶとは、亦奇なる哉。
   〇小八幡宮
公方屋敷の傍にあり。『鎌倉年中行事』に{**3}、「成氏の勧請せし上の八幡」と称するは、是なるべし(御所の北は山にて、八幡宮を建つ故、上の八幡と云ふ)。
   〇宅間谷
宅間左近将監為行と云ふもの居住せしより、此名あり。又、此に上杉朝宗邸蹟あり{*2}。然れども、明文なし。永和二年四月十七日、僧義堂、此に上杉能憲が病を訪ひし事、『日工集』に見えたり{**4}。能憲は、憲顕の子にして、朝宗には従兄なり。或は其邸に居るか。又、此谷は犬懸谷と隣する故に、朝宗の屋敷を犬懸屋敷と云ひしか。朝宗の子・氏憲を犬懸祖と称す。今孰れか是を詳かにせず。

二行割書注
 1:南朝正平四年。(〇公方屋敷蹟)
 2:朝宗は、憲藤の子・朝房の弟なり(〇宅間谷)

校訂者注
 1・2:『新編相模国風土記稿』「鎌倉郡巻之二十六 公方屋鋪蹟」に従い訂正。
 3:『新編相模国風土記稿』「鎌倉郡巻之二十六 八幡宮」に従い訂正。
 4:本文は『新編相模国風土記稿』「鎌倉郡巻之二十六 宅間谷」と同文であるが、同書割注には、「永和四年四月(中略)十七日」とある。

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