〇絹張山
往昔、源右大将、大蔵に在住の時、夏頃此山に絹を張り、雪降りたるが如くにして一覧せり。故に此名あり。又、此地、尼寺あり。住持の尼、松樹の枝に衣を掛、晒せしより名づくと。里俗、山麓犬懸(いぬかけ)谷を衣掛(きぬかけ)と呼ぶ。又、山麓は本巡礼道とて、三浦郡久野谷村岩殿寺{*1}に達す。即ち古の三浦道なり
〇報国寺{*2}
宅間谷にあり。境内広し。東西凡そ四五町、南北十七八町許(ばか)りあり。絹張山も其境内なり。足利家時の創立、僧・天岸を開祖とす。一説に、持氏の息・義久、当寺に於て自殺す。又、家時の木像あり(明治廿四年一月、仏殿、回禄に罹り、本像も亦焼失す)。門前に流るゝ川を座禅川と云ふ。滑川の流域なり。寺門の入口に橋あり。渡月橋と云ふ。〇後山、老松の樹根に{**1}、家時の墓あり。
〇明王院
飯盛山寛喜寺五大堂と号す。里俗は大行寺と呼ぶ。真言宗なり。嘉禎元年正月二十一日、将軍頼経の建立なり。五大尊の像ありしが、寛永中、回禄に罹り四尊焼失、今は不動一躯を本尊とす{*3}。又、頼経の木像あり。
〇梶原屋敷跡
五大堂の北方、山際にあり。平三景時が居蹟なり。正治元年十二月、破却して、永福寺の僧坊に寄附ありしは、此第なり(『東鑑』曰、「正治元年十二月十八日、景時事、諸人連署に就き、今日鎌倉中を追出され、其後家屋を破却、永福寺僧坊に寄付さる。」)。中程に、梶原井戸と字する所あり。
〇光触寺[時宗藤沢末。一遍の開基。]
朝比奈切通
鎌倉七口{*4}の一なり。大切通と云ふ。大切通より一町を隔て、東方を小切通と云ふ。仁治二年四月、経営の事始まりて、執権泰時、躬(み)づから監臨し、人夫を促さんが為、己が乗馬を以て土石を運致せしとぞ。
〇浄林寺[臨済宗]
〇上総介墓
金沢往還南、陸田(はたけ)の間に在り。塔島と呼べり。土人伝へて、高時滅亡の時、当所にて討死せし上総介某の墓なりと云ふ。又、『鎌倉志』には、「上総介広常事か。」と記せり。碑の様を見るに、当今の物とも思はれず{**2}。固より文字を鐫(きざ)まざれば、其詳かなること知るべからず。
〇滑川
源を峠村に発し、十二所村を逕し、浄妙寺・二階堂・西御門・雪下四村に至りては座禅川と称し、小町・大町の辺にては夷堂川、又、墨売川と唱へ、乱橋・材木座村等にては閻魔川と云ふ。材木座村の西にて海に入る。
往昔、青砥左衛門藤綱、此水底に少許の銭を散落せしを、許多の銭を費して取り得し事、今古人の美談とす。
〇宝戒寺執権第蹟{*5}
金竜山釈満院と号す。天台宗なり。則ち、執権の第蹟なり。建武二年、高時以下の亡霊の怨念を度せんが為め、其宅趾に、葛西谷に在りし東勝寺を遷して、北條一族の骸骨を改め葬り、此寺を建立せりと云ふ。恵鎮(江州人。慈威和尚と号し、円観僧正{*6}と称す。五代帝王の戒師たるを以て、五代国師と称す。)を開祖とす。〇境内、山王歓喜天・徳宗権現合社あり。徳宗とは高時を祀るなり。〇建保元年五月、義盛、叛する時、義時、此邸にありて囲碁の会あり。義盛の兵、此邸を囲む。家臣防戦、死傷頗る多し。元弘三年三月、高時、尊氏をして西上せしむる時、源家累代の白旌及馬・鎧・太刀等を与へて、餞とす。五月、源氏の軍兵、所々に放火して攻めければ、此舘忽ち灰燼となり、高時は葛西谷に遁る。独り安東聖秀入道、稲瀬川より引退きて、此邸に自害討死の人なきを聞き、其部下と共に焼跡に自害す(聖秀、義貞が室の伯父なる故、書を贈りて降参を勧めしが、聖秀大に怒り、使者の前にて其文を刀に拳(にぎ)り、腹かききりて失せにけり)。
屏風山・小富士山、皆、寺の後背にあり。
二行割書注
1:坂東二番。(〇絹張山)
2:功臣山報国建忠禅寺。建忠の二字は、家時創立の時、勅許さる。臨済宗。但し、原(もと)無本寺。{**3}。(〇報国寺)
3:長三尺。運慶作。(〇明王院)
4:朝比奈・名越・極楽寺・大仏・化粧{**4}・亀ヶ谷・巨福呂。(朝比奈切通)
5:北條義時より高時に至るまで、大抵此邸に在り。(〇宝戒寺執権第蹟)
6:円観は、後北條氏を咒詛し、陸奥に流さるゝ人なり。(〇宝戒寺執権第蹟)
校訂者注
1:『新編相模国風土記稿』「鎌倉郡巻之二十六 報国寺 足利家時墓」に従い訂正。
2:『新編相模国風土記稿』「鎌倉郡巻之三十 上総介墓」に鑑み訂正。
3:『新編相模国風土記稿』「鎌倉郡巻之二十六 報国寺」に鑑み訂正。
4:「化」の字、底本は「米偏に化」。
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