〇葛西ヶ谷{*1}
滑川の東南にあり。宝戒寺の境内となれり。高時一族、此谷に引籠もれり。又、小富士山の麓に腹切巌窟と云ふあり。北條の一族・残兵共、自殺せりと。今に遺骨を掘出すことありしと云ふ。又、三ッ鱗の瓦を掘出せりと。思ふに、北條第蹟に散乱し在りしを、土人、耕作の妨になるより、こゝに埋めしなるべし。〇東勝寺廃蹟、此谷にあり。泰時の草創、北條氏代々の墳墓地なり。高時始め一族門葉二百八十三人、皆自殺し、堂宇に火を懸け焼払ふ。其余は前に述ぶる所の巌窟、或は門外にて自害す。此所にて死するもの、凡て八百七十余人なり。
 此辺にて、承久の乱の宣使・押松丸を召捕へしと云ふ。
   〇足利左馬頭義氏第蹟
葛西谷に在り。弘治二年、北條氏康、此邸を造営して義氏の居所とす(『小田原記』曰、「天文廿三年十月、晴氏卿、御隠居。御子・義氏を公方に成し奉る。是は、氏綱の御息女の腹に出来給ひし若君なれば、小田原より御馳走は限りなし。則、京・公方より御吹挙あり。勅使を立てられ、左馬頭に補任あり。葛西谷に移し奉る。」)。此年十二月、下総・関宿城に遷り、当所は宝戒寺に還附あり。〇補遺。天文二十一年十月、氏康、古河城を陥れ、足利晴氏を執へ波多野に放ち、其子・義氏を立てゝ葛西谷に居き、後又、関宿に徙す。古河公方略系、左の如し。
 成氏・政氏・高基・晴氏・義氏。
   〇土佐房昌俊宅蹟
宝戒寺域内、南の畠を云ふ。文治元年、頼朝の命に依りて義経を京師に襲ひ、克たずして、六條河原に斬らる。
   〇塔の辻
宝戒寺の南方往還なり。執権の第ありし頃、下馬札{**1}のありし所なり。安東聖秀が稲瀬川より退く時、平日出仕の時の如く、塔辻に下馬すとあり{*2}。宝治元年六月、三浦泰村を討つの時、北條六郎時定、若干の軍兵を率ゐて此地より馳せ向ふ。文和{**2}元年閏二月、脇屋義治・小俣義弘等、南遠江守を敗る。又、上杉禅秀の乱、此所に始めて旗を挙げたり。
   〇大巧寺{*3}
古、大行寺とて、真言宗なりしを、頼朝の時、此寺にて軍評定ありて其合戦勝利を得たれば、大巧寺{**3}と改め、日証を開山として妙本寺の院家に属せり。
   〇本覚寺{*4}
永享年中の草創。開山日出。
   〇勝長寿院廃蹟
大蔵町の南にあり。今、芝草繁茂す。其地を大御堂谷と唱ふ。当寺は、頼朝、先考の為に草創する所にて、阿弥陀山と号し、南御堂又は大御堂と称呼す。建武二年八月、中前代滅亡の時、諏訪頼重始め宗徒の者四十三人、此所に自殺す。成氏、古河へ退去し、両上杉、他国へ移転の後は、此辺漸々と荒蕪の地となると共に衰廃し、遂に荊棘の地となり、今は其の礎蹟をも存せず。
   〇左馬頭義朝墓
当寺域の内なれども、所在詳かならず。『東鑑』に、文治元年八月、頼朝、先考の為、当寺を創立の事、潜かに奏聞ありしに、法皇、頼朝の偉勲を叡感の余、東獄に在りし所の義朝の首を尋ね出され、江判官公朝を以て、鎌倉に贈らせ給ふ。頼朝は、稲瀬川の辺に出迎へて之を請取らる。
 『平家物語』には、文覚が義朝の首を以て、関東に下向するの事あれども、余、此説を取らず。当時、鎌田正清が首も贈られし事、『東鑑』に見えたり。故に、正清の墓もありしとぞ。
九月、当境内に埋葬せらる。後又、左少弁兼忠を勅使として、正二位内大臣を贈らせらる{**4}。
   〇二位禅尼如実墓{*5}
   〇右府実朝墓
鶴岡の変、実朝首級は、公卿が携へて遁る故に、前日、兵衛尉宮内公氏{**5}に賜ひし所の鬢の毛を以て頚として、体と共に棺に蔵め、当院の傍に葬りし事、『東鑑』に見ゆ。

二行割書注
 1:頼朝、葛西清重に賜りしより、此名ありと云ふ。(〇葛西ヶ谷)
 2:時に、第は已に焼失す。(〇塔の辻)
 3:法華宗。長慶山正覚院。(〇大巧寺)
 4:法華宗。妙巌山。(〇本覚寺)
 5:『東鑑脱漏』に、嘉禄元年七月、逝去。御堂御所にて荼毘すと云々。(〇二位禅尼如実墓)


校訂者注
 1・2:『新編相模国風土記稿』「鎌倉郡巻之ニ十 小町村 小名 塔辻」に従い訂正。
 3:『新編相模国風土記稿』「鎌倉郡巻之ニ十 大巧寺」に従い訂正。
 4:『新編相模国風土記稿』「鎌倉郡巻之十八 左馬頭義朝墓」割注に「平家物語曰。(中略)故左馬頭ノ墓ヘ。内大臣正二位ヲ贈ラル。勅使ハ左少弁兼忠トソ聞エシ。(中略)亡父尊霊。贈官贈位ニ及ヌルコトソ。難有ケレ。」とある。
 5:『新編相模国風土記稿』「鎌倉郡巻之十八 右府実朝墓」及び『東鑑』建保七年正月廿七日の條に鑑み訂正。

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