〇文覚屋敷蹟
大御堂谷の西にて座禅川に辺せり。濶(ひろ)さ一町許り。寿永元年、文覚、江嶋弁財天勧請の時、四月、幕府に来る。又、文治元年九月、下向の事あり。是等の為めに旅舘なるべし。
〇比企妙本寺[日蓮宗]
此谷は、頼朝の乳母・比企禅尼、此地に卜居す。因りて名づく。妙本寺は、長興山と号す{*1}。
此地は、元、比企判官能員の第蹟なり。日蓮大士、説法始の霊場とし、後、日朗に寺域を附属す。故、日朗を開山とす。又、文永十一年三月、本行院日学、開基す。日学は能員の末男にて、三郎能本{*2}と号し、日蓮の俗弟子なり。父・能員の誅せらるゝ時、京都・東寺に匿れて、剃髪せり。其後、将軍頼経の夫人{*3}は、能員の外孫なる故、其所縁を以て赦免せられ、鎌倉に帰りて、当寺を建立せしとなり。佐竹常元、家督の事にて持氏の討手を蒙り、此所に自殺す。〇祖師堂、宗祖在世の時、弟子・日法、随身して、容貌を模せしなりと云ふ。
〇蛇苦止明神社
能員の女・讃岐局の霊を祀れるなり。其霊、大蛇となりて、北條政村{*4}の女に着し、常に之を苦しめり。故に、之が為めに祠を立て、此神号を授けしなるべし。
〇一幡袖塚{*5}
一幡、小御所に夭死せし時、灰燼中に於て、小袖の焼残れるを認めて証とし、遺骨を拾ひ得たり{*6}。時に、其袖をもて此所に埋めしなりとぞ。
〇比企氏一門塚
祖師堂の右の山麓にて、銀杏樹の朽株の内に石の小塔を置く。「比企一門打死亡霊之塚。建仁三癸亥年九月二日{**1}。」と彫しあり。
〇比企判官能員夫妻二墓
前と同所の山麓にあり。五輪塔なり。
一は「比企廷尉藤原能員法名長興霊儀廟」{**2}。
一は「廷尉藤原能員妻三浦氏妙本墓」。
〇能本入道日学夫妻墓[五輪塔なり]
一は「廷尉能員之子大学三郎能本本行院日学上人」。
一は「比企法橋能本室理芳霊位廟」。
〇佐竹上総入道常元(じやうげん)主従墓{*7}
〇竹御所蹟
祖師堂の左方にあり。将軍頼家の息女、此地に住し、竹御所と称す。是、比企能員の外孫女なり。後、将軍頼経に配す。
〇祇園天王社
松殿町にあり。永保年中、新羅三郎義光の勧請にて、神体は秘像と云伝ふ。又、応永年中、佐竹四郎義秀の霊を祀りし社{**3}、其屋敷蹟にありしが、後年、大破に及びしより、茲に合祀すと云ふ。故に、土俗、佐竹天王と称す。按ずるに、義秀は頼朝の時の人にて、時代違へり。応永の末に、其後葉・佐竹義顕入道、持氏の不審を蒙り、比企ノ谷の法華堂にて自害す。其霊祟りて、一社を建つる事あり。義秀は、義顕の誤ならん。
〇足利持氏墓
別願寺{*8}本堂の西に在り。五輪塔にて、「長春院殿其阿弥陀仏。永亨十一年二月十日」と彫す。持氏追福の為、後に建てたるものか。来由、詳かならず。
二行割書注
1:山寺号は、比企能員夫婦の法名に拠れり。(〇比企妙本寺)
2:能員の死す時、能本は二歳なり。(〇比企妙本寺)
3:頼家の女。(〇比企妙本寺)
4:義時の子。(〇蛇苦止明神社)
5:塚上に梅樹一株あり。古木は枯れて、植継ぎしものなり。脇に、「源頼家卿御嫡男一幡君御廟」と題せし標を建つ。(〇一幡袖塚)
6:染附菊枝小袖にて、纔に寸余、焼残るなり。(〇一幡袖塚)
7:祖師堂右方山麓巖窟中に数基並立す。(〇佐竹上総入道常元主従墓)
8:稲荷山超世院と号す。時宗、藤沢の末。(〇足利持氏墓)
校訂者注
1:『新編相模国風土記稿』「鎌倉郡巻之十九 比企氏一門塚」に従い訂正。
2:『新編相模国風土記稿』「鎌倉郡巻之十九 比企氏一門塚 比企判官能員夫妻墓二墓」割注に従い訂正。
3:『新編相模国風土記稿』「鎌倉郡巻之十八 祇園天王社」に従い訂正。
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