〇安養院
祇園山長楽寺と号す。浄土宗。嘉禄元年三月、二位の禅尼、頼朝菩提の為、笹目ヶ谷辺{*1}にて、方八町の寺域を卜し、律寺を建立し、僧・願行を開山とし、永く菩提所と定む。又、茲年七月、禅尼逝去ありしかば、願行、導師となり、当寺に葬送し、法名を安養院如実妙観大禅尼と号すと云ふ。『東鑑脱漏』によれば、大御堂御所の地に火葬する事実に似たり。後、兵火{*2}の為に、堂宇焼失しければ、当所・善導廃寺蹟{**1}に移して、両寺合併せしなり。願行より十五世・昌誉、律宗を改め{**2}、今の宗となる。
〇安国寺[松葉谷妙法山と号す。]
日蓮、房州小湊より当所に移住し、小菴を営み、肇めて法華経の首題を唱へし旧蹟なり。又、門内右方に巌窟あり。『安国論』を編述せしと云へり。
〇妙法寺{*3}
寺伝に拠れば、宗祖、始めて小菴を結びしと云ふ{*4}。妙法寺山上に護良親王の社あり。当寺中興・日叡の父宮なるを以て、其頃祀りしと云ふ(日叡{*5}は大塔宮護良親王の遺子にて、楞厳親王妙法房と称すと云ふ)。
〇佐竹屋敷蹟
大宝寺の域内なり{*6}。佐竹常陸介秀義以後数世、居住の地なり。『諸家系図纂』に、「秀義の後裔・右馬頭義盛、応永六年、鎌倉に多福寺を建つ。」とあり。
多福明神社。[新羅三郎義光の霊廟と云ふ。]
〇名越屋敷跡[佐竹屋敷の北に在り。旧記詳かならず。]
〇由比若宮旧地
由比の浜大鳥居の東、辻町にあり。下宮の原社なり。康平六年八月、頼義の勧請せしなり。『東鑑』仁治二年四月、由比大鳥居の拝殿、逆浪の為に流失せし事を記せり。即、当社の拝殿なるべし。
〇来迎寺[随我山と号す。時宗。]三浦義明墓
開山一向{*7}。本尊・三尊弥陀を安んず。三浦大介義明の守護仏と云ふ。又、三浦義明の墓あり{*8}。其縁故、詳かならず。
〇補陀落寺
南向山帰命院と号す{*9}。開山は文覚にて、頼朝、祈願所として創建せり。本尊、不動及び薬師等なり。又、頼朝の木像を置けり。鏡の御影と称せり{*10}。同、位牌あり(征夷将軍二品幕下神儀とあり。文覚の書と云ふ){**3}。開山文覚の牌もあり(開山権僧正法眼文覚尊儀とあり){**4}。旗一流、九万八千軍神と書せり{*11}。
〇光明寺
天照山蓮華院と号す。浄土宗関東惣本山なり。北條経時の開基。本、佐介ヶ谷{**5}に在りて、蓮華寺と号せしを、御嵯峨帝寛元元年{**6}、今の地に移転し、光明寺と改む。僧・良忠{*12}を開山とす。永仁元年寂、勅謚あり。記主禅師と号す{*13}。僧・佑崇、中興の開山とす。
天照山[後花園帝宸筆]
勅願所[中興佑崇筆]
天照太神像[長三寸許(ばか)り。応神帝御作。]
蓮乗院{*14}
千手院[今の小学校。]
二行割書注
1:西方、長谷寺村界・長谷寺谷と云ふあり。是、当寺の旧蹟なり。(〇安養院)
2:兵火、正慶二年の兵火なるべし。(〇安養院)
3:楞巌山蓮華院と号す。松葉谷の北方にあり。(〇妙法寺)
4:安国・長勝、二寺にも菴の蹟あり。何れか是を詳かにせず。三寺とも併列せり。(〇妙法寺)
5:第五世。(〇妙法寺)
6:多福山一乗院。(〇佐竹屋敷蹟)
7:建治元年寂すと。(〇来迎寺)
8:五輪塔。(〇来迎寺)
9:古義真言宗。仁和寺末。(〇補陀落寺)
10:長八寸許り。四十二歳の自作と云ふ。(〇補陀落寺)
11:平家赤旗と称し、文字は相国清盛の筆と伝ふ。(〇補陀落寺)
12:御嵯峨上皇の戒師なり。(〇光明寺)
13:虚骨を住吉瓶子山下に葬る。(〇光明寺)
14:開山良忠、此寺に居て、光明寺を建立す。故に住持入院の時は、先、此院に入て、後、方丈に入る。(〇光明寺 蓮乗院)
校訂者注
1・2:『新編相模国風土記稿』「鎌倉郡巻之十九 安養院」に従い訂正。
3・4:『新編相模国風土記稿』「鎌倉郡巻之二十七 補陀落寺」に従い訂正。
5:『新編相模国風土記稿』「鎌倉郡巻之二十七 光明寺」に従い訂正。
6:『新編相模国風土記稿』「鎌倉郡巻之二十七 光明寺」に鑑み、以下訂正。
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