〇小坪阪
康安の頃は、鎌倉郡に属せしが、其後、三浦郡に属す。治承四年八月、和田義盛が党、畠山重忠と此坂に戦ふ。
『源平盛衰記』曰、「治承四年八月、和田小太郎義盛、由井の浜を過ぎ、小坪阪を上らんとしける時、畠山は本田・半沢に云けるは、『三浦の輩にさせる意趣なし。去共(されども)、矢一ッ射ずば、平家の聞へも恐あり。打立て、者共。』と下知し、五百余騎、小坪坂口にて追付たり。三浦百三十余騎、畠山に懸られて、小坪の峠に打上り、轡を並べてひかいたり。畠山次郎は、由井の浜・稲瀬川の耳に陣を取りて、赤旗、天に輝けり。和田小太郎は、白旗ささひて、百余騎、小坪の峠より打下り、渚へ向て歩ませ出す。爰に畠山、横山党に弥太郎と云者を使にて、和田小太郎が許へ云けるは、『日頃、三浦の人々に意趣なき上は、是まで馳来るべきにあらず。私軍、其詮なし。両軍引退かせ給はゞ、公平たるべきか。』と、人の穏便を存ぜんに、『勝に乗るに及ばず。』とて、和田小太郎は小坪の峠に引返す。云々。かくて、和田は三浦へ帰りければ、畠山は武蔵へ帰りけり」。
『源平盛衰記』曰、「治承四年八月、和田小太郎義盛、由井の浜を過ぎ、小坪阪を上らんとしける時、畠山は本田・半沢に云けるは、『三浦の輩にさせる意趣なし。去共(されども)、矢一ッ射ずば、平家の聞へも恐あり。打立て、者共。』と下知し、五百余騎、小坪坂口にて追付たり。三浦百三十余騎、畠山に懸られて、小坪の峠に打上り、轡を並べてひかいたり。畠山次郎は、由井の浜・稲瀬川の耳に陣を取りて、赤旗、天に輝けり。和田小太郎は、白旗ささひて、百余騎、小坪の峠より打下り、渚へ向て歩ませ出す。爰に畠山、横山党に弥太郎と云者を使にて、和田小太郎が許へ云けるは、『日頃、三浦の人々に意趣なき上は、是まで馳来るべきにあらず。私軍、其詮なし。両軍引退かせ給はゞ、公平たるべきか。』と、人の穏便を存ぜんに、『勝に乗るに及ばず。』とて、和田小太郎は小坪の峠に引返す。云々。かくて、和田は三浦へ帰りければ、畠山は武蔵へ帰りけり」。
建久四年七月、頼朝、此地に遊宴あり。正治二年九月、頼家、此地にて笠懸あり。延元二年九月、顕家、鎌倉攻の時、此地に挑戦あり。〇小坪村の北は、名越坂、即ち名越切通なり。又、此山間、孔道四あり。土民、捷径の為に穿つ所なり。土俗、通矢倉と云ふ。
〇飯嶋崎及住吉城蹟
飯嶋、海浜にあり。此地、三浦郡小坪村に跨れり。寿永年間、此地に伏見冠者広綱が家在し事、『東鑑』に見えたり。又、当時、西浜とも称せり。応安三年、水溢の災に罹りて、人家悉盪尽せし事あり。〇六角井、又、矢根井とも唱ふ。鎌倉十井{*1}の一なり。里俗の話に、昔、鎮西八郎為朝、大島に在りて、「我弓勢、昔に変らずや。」と、天照山{*2}を斥して之を射る。其矢、十八里を越て、此井中に落たり。里民、其矢を取る。鏃は井底に残れり。又、此村の出崎を和賀江島と云ふ。屡、潮汐に崩壊して{**1}、今は纔に乱礁を存せり。
住吉城蹟は、正覚寺{*3}内・住吉明神の社地、是なり{**2}。背は山に拠り、前は海に臨み、要害の山城なり。造築の始、詳かならず。永正七年、長尾六郎為景蜂起の時、北條新九郎入道早雲、仮に当所の古城{**3}を取立て、楯籠る。されど、早雲も須臾にして当城をすて、三浦介義同が抱城となりしにや(永正九年、早雲、岡崎城{*4}を攻む。義同、住吉城{**4}に走る。早雲、又、之を陥れ、義同走りて新井城{*5}を保つ。後、遂に陥りて、子・義意と奮闘して死す)。義同、三浦に奔るの後、北條氏、廃却せしならん。
二行割書注
1:六角、石、星月夜、鉄、棟立、瓶、廿露、泉、扇、底脱。{**5}(〇飯嶋崎及住吉城蹟)
2:光明山の後山。(〇飯嶋崎及住吉城蹟)
3:住吉山悟真院と号す。記主禅師、駐錫の旧跡なり。{**6}戦争に逢ふて廃寺となり、後、天文十年、光明寺十八世・快誉、再興す。浄土宗。光明寺末。(〇飯嶋崎及住吉城蹟)
4:大住郡糟屋荘入山瀬村。(〇飯嶋崎及住吉城蹟)
5:三浦郡古網代村。城跡あり。(〇飯嶋崎及住吉城蹟)
校訂者注
1:『新編相模国風土記稿』「鎌倉郡巻之二十七 和賀江島」に従い訂正。
2・6:この箇所、正覚寺に関する二行割書注に入れるべき内容が、住吉城蹟に関する本文となっている。『新編相模国風土記稿』「三浦郡巻之二 住吉明神社」・同「三浦郡巻之二 住吉城蹟」に従い訂正。
3・4:『新編相模国風土記稿』「三浦郡巻之二 住吉城蹟」に従い訂正。
5:『新編相模国風土記稿』「鎌倉郡巻之一 今所唱合庄三 井十」に従い訂正。
コメント