〇小袋坂
古は、巨福呂、或は巨福路とも書せり。鎌倉七口の一。山之内村に通ず。巌頭を雪下・山内村界とす。坂の左側小坂{*1}の上に一祠あり{*2}。相伝ふ、鎌倉将軍、病に在りて、青梅を食せんと欲し、会(たま)々此社前の樹に青梅あり。之を進めて、疾、頓に愈たり。故に名づくと。
元弘三年五月、新田義貞、鎌倉攻の時、堀口三郎貞満・大島讃岐守守之を大将として、十万余騎、此口に向はしむ。鎌倉にては之を防がんため、赤橋前相模守盛時を大将として、六万余騎にて出張す(赤橋盛時、之を洲崎{*3}に防ぎ、軍敗れて之に死す。鎌倉三口、此所一番に敗ると云ふ{*4}。文和元年閏二月、新田義興・脇屋義治、鎌倉を襲ひし時、南遠江守、之を警固す。遂に敗る。〇応永廿四年正月、上杉禅秀滅亡の時、其子・快尊、此地に自害す。
元弘三年五月、新田義貞、鎌倉攻の時、堀口三郎貞満・大島讃岐守守之を大将として、十万余騎、此口に向はしむ。鎌倉にては之を防がんため、赤橋前相模守盛時を大将として、六万余騎にて出張す(赤橋盛時、之を洲崎{*3}に防ぎ、軍敗れて之に死す。鎌倉三口、此所一番に敗ると云ふ{*4}。文和元年閏二月、新田義興・脇屋義治、鎌倉を襲ひし時、南遠江守、之を警固す。遂に敗る。〇応永廿四年正月、上杉禅秀滅亡の時、其子・快尊、此地に自害す。
〇建長寺[臨済宗]
巨福山と号す。五山の第一たり。開山は道隆、開基は北條相模守時頼なり。建長五年造営。本尊地蔵。此地は古昔、刑罪場にして地獄ヶ谷と字し、地蔵の小堂あり。故に、旧に因りて之を本尊とすと云ふ。応永廿一年十二月焼失。管領持氏、之を営す。
建武二年、尊氏、逃れて建長寺に入りて、髻を断ちて衆心の去就を見るの事あり。
〇長寿寺[臨済宗]
宝亀山と号す。諸書{**1}、「足利基氏、父の為に剏建す。」と記す。然れども、建武三年八月、尊氏の、当寺を諸山の列に定めし公文あり。詳かならず。〇尊氏廟塔、客殿の後山際にあり{**2}。
〇管領邸蹟
貞和五年、足利基氏、関東の管領として鎌倉に下向ありしとき、上杉民部大輔憲顕、執事として之を輔佐す。是より憲顕、当所に居住しければ、世人、之を山内の管領と称す。憲顕卒す。其二男・兵部少輔能憲、父に代り氏満の執事たり。時に憲藤{*5}の男・弾正少弼朝房も、相並びて執事職に補せられ、世に之を両上杉と称す{*6}。永和四年四月、能憲卒す。弟・刑部大輔憲春、継ぎて執事となる。康暦元年三月、氏満、密に京都将軍家を傾けんと欲す。憲春、屡諌むと雖も容れられざりしかば、遂に諌書を残して自殺す(『大日本史』曰、「天授五年、土岐康行兵を起し、足利義満に背く。義満、兵を氏満に徴す。氏満、上杉憲方を遣して之に赴かしむ。康行敗るゝを聞きて還る。是の時義満、政行縦恣{**3}、稍(やや)人心を失ふ。氏満以為へらく、良機なりと。簒(うば)ひて之に代らんと欲す。上杉憲春、之を諌め自殺す。氏満乃ち止む。」)。時に三月七日なり。弟・安房守憲方、職を継ぐ。明徳三年辞職。子・憲孝職を襲ぐと雖も、幾程なくして又職を辞す。かくて、犬懸の上杉中務少輔朝宗入道禅助{*7}之に代る。応永十二年九月、職を辞す。憲方三男・安房守憲定職を継ぎ、十八年九月卒す。其男・安房守憲基若年なる故に、朝宗の男・氏憲之に代る。二十三年四月、氏憲職を辞し、憲基執事となりしが{*8}、幾程もなくして卒す。廿六年正月、憲基の男・憲実、当職に補す。永亨十年、持氏、京都将軍・義教と確執に及ぶにより、憲実、屡諌めしに、却て之を疎み、誅伐せらるべき風説有しかば、是年八月、此所を去りて上州白井{**4}に遷る。十一年、持氏生害の後、剃髪して長棟と号し、越後に在りける弟・清方を招き、職を委す。十二年、憲実入道、義教の命を奉じて再び此所に帰り、国政を輔く。此間、鎌倉公方断絶するにより、凡ての政務、専ら上杉家に帰す。斯て成氏鎌倉下向の時、潜に当所を去りて防州に遁れ、応仁元年三月卒す。文安四年、成氏管領となるに及び、憲実の男・右京亮憲忠を豆州の山中より召出し、執事職に補せらる。憲実の中国に遁るゝの後、当所の旧第破壊に及びしかば、更に西御門村に別第を構へて住せしより、此地の第は頽廃せり。永禄四年三月、上杉謙信、鶴岡参詣の時、旧第の蹤跡たるを以て、当所に仮屋を設けて止宿あり。今は陸田となる。
山内上杉家の系図
藤原清房の後裔

二行割書注
1:聖天坂と呼ぶ。(〇小袋坂)
2:青梅聖天社と云ふ。(〇小袋坂)
3:寺分村。(〇小袋坂)
4:南條左衛門尉安久井入道も亦、之に死す。(〇小袋坂)
5:憲顕弟。(〇管領邸蹟)
6:『諸家系図纂』曰、能憲・朝房、両管領と号す。両上杉初云々。(〇管領邸蹟)
7:朝房弟。(〇管領邸蹟)
8:此時氏憲、不平の余り乱を作す。所謂禅秀の乱。(〇管領邸蹟)
校訂者注
1:『新編相模国風土記稿』「鎌倉郡巻之十三 長寿寺」に鑑み訂正。
2:『新編相模国風土記稿』「鎌倉郡巻之十三 長寿寺 尊氏廟」に従い訂正。
3・4:『新編相模国風土記稿』「鎌倉郡巻之十三 管領邸蹟」に従い訂正。
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