〇浄智寺[臨済宗]
金峯山と号す。鎌倉五山の第四なり。開山は普寧、開基は北條武蔵守宗政・同相模守師時父子なりと云ふ。応永廿四年正月、禅秀乱の時、持氏当寺に入る。又、文安四年九月、成氏下向の時、先づ当寺に入り、公方屋敷の造営を待ちしとぞ。[廿露井。鎌倉十井の一。]
〇葛原岡神社[藤原俊基卿墓]
扇ヶ谷村の北界にあたれる丘を云ふ。元弘二年六月、右中弁・藤原俊基を此に殺せり。俊基の此所に刑せらるゝや、工藤二郎左衛門尉高景、之を監す。時に俊基夫人の使・助光と云ふもの、夫人の命を受けて、京都より俊基の最後に謁せり。俊基の辞世に、「古来一句。無死無生。万里雲尽。長江水清。」と。筆を差置て、鬂の毛を摩でられければ、刀影と共に首は前に落ちけるを、自ら抱きて伏せられけり。今尚ほ俊基卿の墓あり(神祠は墓の北方、壑を隔てたる所に在り。明治廿一年の創建なりしとぞ)。〇義貞、鎌倉攻の時、陸奥守貞通、此所に迎へ戦ふ。
〇仮粧坂
〇仮粧坂
気生、又、形勢に作る。相伝ふ、古、平家の首討取て仮粧し実検に備ゑしより、此名起ると云ひ、一説に、昔、遊女の居住せし地なれば、此名を負せしとも云へり。
元弘三年、義貞・義助、諸将を率ゐて此坂より攻め入れり。鎌倉方にては、金沢越後左近将監、上総・下総の兵を以て此阪を固めけり。〇文和元年、新田義興、此坂を攻むる時、南遠江守、安房・上総の勢千余人にて此所を切塞げり。〇応永二十三年、禅秀の乱に、此坂に合戦す。持氏、遂に敗れて西藤沢に走る。
元弘三年、義貞・義助、諸将を率ゐて此坂より攻め入れり。鎌倉方にては、金沢越後左近将監、上総・下総の兵を以て此阪を固めけり。〇文和元年、新田義興、此坂を攻むる時、南遠江守、安房・上総の勢千余人にて此所を切塞げり。〇応永二十三年、禅秀の乱に、此坂に合戦す。持氏、遂に敗れて西藤沢に走る。
俊基朝臣、葛原岡に刑せらるゝ時、此東坂を過ぎしとぞ。
〇冷泉為相墓
浄光明寺の後山項上{**1}にあり。五輪塔なり。月巌寺殿玄国昌久と刻す。為相、倭歌所の事により兄・為氏と争論ありて、遂に母と共に鎌倉に下り、此地に終れりと云ふ。
〇上杉定正邸蹟
華光院{**2}の門前にあり。定正は修理大夫持朝の子なり。亨徳の頃より此地に住し、成氏の子・政氏を輔翼し政務を沙汰せし事、『鎌倉九代記』に見えたり。其頃、世に扇ヶ谷の上杉殿と称せしなり。定正は明応二年十月五日に卒す(法名・護国院大通範了と云ふ)。
扇ヶ谷上杉家の系図

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{**3}校訂者注
1:『新編相模国風土記稿』「鎌倉郡巻之二十一 浄光明寺」に従い訂正。
2:『新編相模国風土記稿』「鎌倉郡巻之二十一 華光院」に、「真言宗。鶴岡八幡宮ノ社僧ナリ。」とある。
3:正しくは「八 朝貞 天文十四年四月於河越戦死」。
3:正しくは「八 朝貞 天文十四年四月於河越戦死」。


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