〇英勝寺太田道灌旧趾
東光山と号す。浄土宗。尼寺なり。寺域は太田道灌の旧趾にして、水戸頼房の母・英勝院禅尼{*1}の創立なり。禅尼、始め{**1}家康に仕へ、恩寵を蒙る。家康薨ずるの後、薙髪して尼となり、寛永十一年六月、此地を賜はり禅尼念仏の道場とす。後、頼房の女を薙髪せしめ、開山第一祖とす{*2}。
 英勝院太夫人墓、並に祠堂。[仏殿の西にあり。]
   〇寿福寺
亀谷山と号す。五山の第三なり。開山は栄西。当寺は、左馬頭・源義朝の第蹟なり。義朝死後、岡崎四郎義実、報恩のため此地に梵宇を創建す。正治二年閏二月十二日、伽藍を建立す。宝治・正嘉・応永二年の頃、回禄に罹る。
 岡崎義実二男・土屋義清、和田合戦に討死し、其首を此所に葬る。
   〇画窟[実朝の墓と云ふ。]
寿福寺開山塔{**2}の後背山麓にあり。土俗、ゑかきやぐらとも、からくさやぐらとも云ふ。岩窟を一丈四方程に掘り、内に牡丹唐草を胡粉にて渥く置上げて彩色したり。窟中に石塔二基あり{*3}。一は実朝の塔と伝へ、一は二位禅尼の塔と云ふ。然れども『東鑑』に拠れば、「実朝は勝長寿院の側に葬る。」と見ゆ。さては、当寺開山栄西・二祖行勇、みな実朝帰依の僧なれば、此には冥福の為に建しものにて、遺骸を収めしにはあらざるべし。〇寿福寺塔頭{**3}・積翠菴に、実朝の肖像を安んぜり。今は同寺仏殿{**4}の内に置けり。

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   〇寿福寺境内十景{**5}
帰雲洞・石切山(山上に望夫石と唱ふあり。畠山六郎の妻、夫の戦死を此山より望み、恋死すと。)・独松峯・双碧池・象王巌{*4}・花鯨峯・碧玉泉・金亀井・梅塢池・雪山嶺廟。
   〇源氏山
寿福寺の後背にあり。又、旗立山と云ふ。古昔、八幡太郎、奥州征伐の時、此所を過りて此山に旗を立つと云ふ事、『鎌倉九代記』に見えたり{**6}。又、武庫山と云ふ。僧・義堂、此山にて詩を賦せり(「憶昔神人座甲兵。至今武庫有山名。峯如剱也嶺加戟。好与君王鎮不平。」)。観応三年閏二月、新田義興・脇屋義治、鎌倉攻の時、其兵を分ちて、旗を此所に立て、大御堂の上より真下りに押寄たることあり。
   〇相馬次郎師常邸蹟[巽荒神の辺なり。]
師常は、千葉常胤が二男なり。元久元年九月十五日死す。墳墓、浄光明寺の谷にあり。〇天王社、寿福寺の南にあり。相馬師常の宅の鎮守なりしを、土人、神霊のあらたかなるより、之を祭るなり。
   〇鍛冶・正宗宅蹟
勝橋の南にあり。今、此地に稲荷の小祠あり。里俗、刃稲荷と唱ふ。正宗が祭る所なりと云ふ。
   〇仏師・運慶宅蹟
正宗宅跡の西にあり。運慶は東寺の大仏師たり。『東鑑』にも、彼が事歴、往々見ゆ。
   〇和田義盛宅蹟
若宮大路にあり。建保元年、義盛、兵を挙るも此宅よりすと(鉄の井の南、商家の裏に義盛の墓あり。是れ宅蹟なるが故に、後人、之を建るか。証拠、詳かならず)。
   〇千葉介常胤第蹟[諏訪屋敷]
天狗堂{**7}の東方にあり。〇諏訪屋敷蹝蹟の伝なし。千葉屋敷の東南の畠を云ふ。

二行割書注
 1:太田新六郎康資{**8}の女なり。寛永十九年八月廿三日、逝す。(〇英勝寺太田道灌旧趾)
 2:玉峰清因と号す(〇英勝寺太田道灌旧趾)
 3:現今一基にして、一基は四五間も距りたる所の岩窟の中にあり。(〇画窟)
 4:古、普賢を安んぜしと云ふ。(〇寿福寺境内十景)

校訂者注
 1『新編相模国風土記稿』「鎌倉郡巻之二十一 英勝寺」に従い訂正。
 2~5:『新編相模国風土記稿』「鎌倉郡巻之二十一 寿福寺」に従い訂正。
 6:『新編相模国風土記稿』「鎌倉郡巻之二十一 源氏山」に従い訂正。
 7:『新編相模国風土記稿』「鎌倉郡巻之十九 千葉介常胤第蹟」に従い訂正。
 8:『新編相模国風土記稿』「鎌倉郡巻之二十一 英勝寺」に従い訂正。

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