〇上総介平直方{*1}屋敷跡
〇問注所蹟
初め、幕府東西の廂を以て其所となして、扁して問注所と云ふ。大夫属入道康信を執事とす(建久二年正月、公文所を置き、大江広元を以て別当に充て、問注所を置き、三善康信を以て執事とす)。建久三年十一月、熊谷次郎直実、久下権頭直光と対決の日、直実、憤悶に堪へず、髪を削りて逐電す。是より、康信が家に署を移されしなり。然らば、此所が康信の宅蹟にてありしか。西北佐介谷{**1}より出る小流に架する橋を、西行橋と云ふ{*2}。是、裁許橋の訛伝ならん。昔、頼朝の時、此辺に屋敷ありて、訴訟を決断すと云ふ。此屋敷とは、上に謂ふ所の問注所の事にて、今も橋南の路傍に、飢渇畠(『鎌倉志』曰、此所、昔より刑罰の所にて、今に至るまで、罪人をさらし斬戮するの地なりとて、耕作をもせず。故に飢渇畠と名づく。)と名づくる古昔の刑罪場などあれば、伝因{**2}なきにあらず。
〇佐介ヶ谷[此谷、経時の旧趾あり。]
大町村の西北にあり。介内広くして、扇谷村入会の地{**3}なり。寛元四年六月、将軍頼経、帰洛の時、当所・北條時盛入道勝円の亭に入る{**4}。文永三年、将軍・宗尊親王帰洛の時も亦、此亭に入る。
応永廿三年十月、禅秀の乱、管領・持氏、当所・上杉安房守憲基第に入り、口々へ勢を向けらる。軍敗れて、敵、舘に火を懸ければ、持氏は当所を落ちて、極楽寺・片瀬・腰越を過ぎて、藤沢に奔れり。
〇国清寺蹟
佐介ヶ谷にあり。高雄の文覚居住{**5}の旧地なり。上杉憲顕、禅宗に改め、無礙玅謙を開山とす。応永廿三年、禅秀の乱、堂宇、兵燹に罹り、其後再建ならず。又、豆州に同名の寺あり。彼も是も、開山・開基とも同人たれば、彼国に移し、爰に廃寺の名は残れるなりと云ふべけれど、然るにあらず{**6}。既に当時、各国に同名両寺在り。
応永廿三年、上杉禅秀乱の時、十月六日、岩松治部大輔・渋川左馬助の軍兵、当寺に放火して戦ふ。火、延きて、佐介の舘に懸りしかば、持氏、支ふること叶はず。遂に落ち延びたりと。
〇笹目ヶ谷[光明寺の事と照し見るべし。]
佐介ヶ谷の西方にあり。寛元{**7}四年閏四月、北條経時を当所の山麓に葬る。宝治元年五月、将軍頼嗣の夫人{*3}をも、経時墳墓の傍に葬る。建長・文永の両度、此辺、災に罹れり。
〇畠山六郎重保石塔
琵琶橋の南方路傍にあり。五輪にて、「明徳五年霜月三日大願主道友」と彫れり。後人の建る所なり{*4}。重保は、次郎重忠の長子なり。元久二年六月、北條時政が室の讒により、由比浜の辺にて佐久間太郎に誅せらる(『鎌倉志』に、「塔の西方を畠山屋敷と云伝ふ。是も重保が旧宅ならん。」とあり。今、土人、此伝を失ふ)。
〇無常堂塚
伊勢の別宮とあり。里俗は甘縄明神と唱ふ。神体は、義家の守護神と云ひ伝へて開扉せず。義家の木像をも安んぜり。〇別当、甘縄院神輿山(後山を御輿嶽と云ふ。又、見越岳とも云ふ。又、御輿崎の名は『万葉集』に顕はる。蓋し此辺、古昔、海岸なるか。今尚、激浪、峻崖を蹴て、岩石の落る状、古歌に彷彿たり。)と号す。臨済宗。天平年中、僧・行基の草創にして、開基は染屋太郎時忠と云ふ。
〇安達藤九郎盛長第蹟
盛長は、中納言藤原山蔭が後なり。頼朝、蛭島に在りて、竊かに兵を挙むと欲せし時、盛長、力を戮せて其謀を資く。頼朝の鎌倉幕府を開くや、盛長の旧臣たるを以て親任せられ、当所で地を賜はりたり。其後頼朝、屡、此第に臨めり。盛長より景盛、義景、泰盛に伝ふ。泰盛、北條貞時の時、其姻家たるを以て、頗る恣横なり。其子・宗景も亦狂躁にして、奢侈、父に超ゆ。貞時が宰・平左衛門頼綱、之を憎み、屡、貞時に讒す。弘安八年十一月、父子共に誅せられ、其族滅亡す。其時、此第も滅却せられしなるべし。〇補遺。頼朝の居を鎌倉に定むるは、盛長の建白なり。
〇稲瀬川
源を御輿ヶ嶽に発し、南に流れて由井ヶ浜に入る。往古は水無の瀬川と云へり。
元暦九年八月、頼朝、此辺に桟敷を構へ、参河守範頼が平家追討の出陣を覧す。〇文治元年八月、勅使を此所に迎へ、故・義朝の遺骨を取り、南御堂の地に葬る。〇元弘の役、新田義貞、川の東西に火を放ち、乱入す。〇暦応元年(南朝延元三年)九月、京方の船(源親房の手船ならん。)、暴風に遭ふて海浜に漂流す。其敵、廿一人を生捕り、此川上にて殺すと。〇持氏の乱、京勢攻め入る時、鎌倉勢は必死となりて拒き戦ひしが、中々勝負の見えざるより、持氏、令を下して、火を稲瀬の東西に放ち、民屋悉く焼亡す。




二行割書注
1:貞盛孫。(〇上総介平直方屋敷跡)
2:此所の南にあり。(〇問注所蹟)
3:経時妹。(〇笹目ヶ谷)
4:明徳五年は、重保戦死より百八十九年の後なり。(〇畠山六郎重保石塔)
校訂者注
1・2:『新編相模国風土記稿』「鎌倉郡巻之十九 西行橋」に従い訂正。
3・4:『新編相模国風土記稿』「鎌倉郡巻之十九 佐介ヶ谷」に従い訂正。
5・6:『新編相模国風土記稿』「鎌倉郡巻之十九 国清寺蹟」に従い訂正。
7:『新編相模国風土記稿』「鎌倉郡巻之十九 笹目ヶ谷」に従い訂正。
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