〇四條金吾頼基宅蹟
入地に在り。今田畝となる。頼基、其父祖詳かならず。日蓮帰依の俗弟子なり。文永八年九月、日蓮、既に擒となり、由井浜に至り、童子熊王をして此由を頼基に告ぐ。頼基兄弟四人、徒跣して馳到り、日蓮に謁し、其場に自殺せんと契約す。日朗も師と同罪たらむと望みけれども、是も許されず。遂に頼基・日朗等六人{*1}、土牢に入れらる。十年閏五月、赦免あり。是後の事、詳かならず。
〇染屋太郎大夫時忠邸蹟
長者ヶ久保に在り。今は陸田たり。時忠、世系詳かならず、其頃の人みな、由井長者と称せしとなり。今、此長者ヶ久保の称呼残れるを以て考ふれば、其家、饒富にして、豪族なりしと覚ゆ。
『詞林采葉抄』に、「大職冠の玄孫に染屋太郎大夫時忠、南都・良弁の父也。文武天皇の御宇より聖武天皇の御宇に至るまで、鎌倉に居住し、東八箇国の総追捕使となりて、東夷を鎮む。」とあり。此人ならんか。
〇大仏
獅子吼山清浄泉寺と号す。金銅の盧遮那仏なり。弥陀を腹籠とす。暦仁元年三月、沙門・浄光、普く募縁して、此地に営作す。始は木像なり。建長四年八月、改めて金銅の仏像を鋳る。建武二年八月、北條時行の軍兵、大風を避けて此堂内に入れり。適(たまた)ま棟梁折れて、之が為に圧殺せらるゝもの、五百余人とぞ。其後明応四年八月、海水激奔して仏殿破壊し、今に至りて再建に及ばず。仏像は露座せり。〇別当、高徳院。[浄土宗]
〇光則寺
行時山と号す。法華宗。寺域はもと、時頼が臣・宿屋光則入道最信が宅地なり。故に今も域内を宿屋と号す。日蓮の竜口に臨むや、日朗以下六人{*2}を光則に預けられ、土の牢に入らる。然るに日蓮、不思議の奇瑞ありて害を免れしかば、是より光則は深く信仰し、宅地{**1}に一宇を営み、光則の父の名を行時と云ひし故に其名を山号とし、我名を寺号とし、日朗を開山始祖とすと云へり。
開山堂{*3}
土牢{*4}
光則墓{*5}
二行割書注
1:光則寺開山堂の註に詳かなり。(〇四條金吾頼基宅蹟)
2:前の四條金吾宅蹟の條に見ゆ。(〇光則寺)
3:日朗・日真及び四條金吾頼基・同左衛門・南條平七郎・中務三郎等の木像を置く。(〇光則寺 開山堂)
4:寺後の山上にあり。日朗以下六人、此に囚はる。今、窟内に日朗の像及び五輪塔あり。(〇光則寺 土牢)
5:寺後の山腹に在り。当時のものに非ず。(〇光則寺 光則墓)
校訂者注
1:『新編相模国風土記稿』「鎌倉郡巻之二十八 光則寺」に従い訂正。
コメント