〇観音堂[坂東札所第四なり。]
海光山新長谷寺と号す。本尊十一面観音{*1}、和州長谷の観音と同木同作なりとぞ。縁起に拠るに、元正帝の御宇、徳道上人、和州長谷の山中に巨木{*2}を得て、観音の像を彫造せむとす。会々(たまたま)二老翁来りて仏工なりと称し、彼木を両断して二体の像を成就す。勅命ありて、僧・行基をして法会を修む{*3}。斯て一躯は其地にとゞめ、一躯は「有縁の地に出現し給へ。」と之を海中に泛ぶ。後十六年を経て、天平八年六月十八日、当国三浦郡長井村の海上に現出す。又勅命ありて、当山に一宇を草創し、徳道を迎へて開山とし、此山寺号を称すと云へり。
   〇御霊社
鎌倉権五郎景政が霊を祀ると云ふ。土人は、五霊社と唱ふ(平良兼四世の孫・村岡五郎忠通の子、五人。即ち為通・景成・景村・景通・景政なり。故に五霊と云ふ)。景政は、奥州の役{*4}、義家に従ひ、敵に左眼を射られしが、遂に其矢を抜かずして其敵を討取しより、高名を顕せし人なり。子孫、世々鎌倉に居れり。文治以前の事にして、社の創建詳かならず。
   〇星ノ井
極楽寺阪の下、虎空蔵堂{*5}前路傍に在り{**1}。『鎌倉志』に「星月夜井と云ふ。昔は此井の中に、昼も星の影見ゆ。故に名づく。此辺の婢女、井中に莱刀を落せしより見えず。」と。妄説、取るに足らず。按ずるに、古昔、極楽寺に到る切通の辺、林巒稠密にして道路の暗き、星月夜の如くなりしより、字せしものならん。是、昔の鬱密険隘なるを証するに足るなり。
    霊仙山
東面海浜に突出せり。山麓を霊山ヶ崎と唱ふ。
 元弘三年、義貞、鎌倉攻の時、鎌倉勢、死を殊(けつ)して防ぎ戦ひけるより、義貞の軍勢、一旦退きて山上に陣取りし事、『梅松論』に見ゆ。
   〇由比ヶ浜
『東鑑』に、或は前浜とも記せり。阪之下村霊山崎より、材木座村飯島に至る迄の海瀕を云ふ。往昔、由比郷に属せしより此名あり。而して郷名は、蚤(はや)く失せり。鎌倉全盛の頃は、士民の居宅、櫛比して此浜辺にありて、頗る繁栄なりしとぞ。
 治承四年八月、石橋山の役に源氏の軍敗北すと聞きて、三浦の輩、半途より馳せ帰る途次、平家の被官・畠山次郎重忠と此海瀕に合戦す。〇文治二年閏二月、静女が腹に出生ありし義経の幼児を、此浦に棄つ。〇建保元年五月二日、和田義盛乱の條に、義盛兵、疲れて前浜辺に退き、三日復た合戦に及び、遂に敗亡す。晩に及びて、海汀に仮屋を設けて首級実検あり。〇元弘三年、義貞、鎌倉攻の時、此浜辺の在家に火を放ち、夫より稲瀬の東西に及びしなり。〇応永十七年、新田義宗の男・越後守貞方、生擒せられ、此浜に於て斬らる。
   〇極楽寺阪
坂之下村堺にあり。往古、重山畳嶂なりしを、僧・忍性、疎鑿して、一條の路を開きしと云ふ。即、極楽寺切通なり。

apic057

 元弘三年、義貞、鎌倉攻の時、大舘次郎宗氏・江田三郎行義を大将として此口に向はしむ。鎌倉にては、大仏陸奥守貞直を大将として、甲斐・信濃・伊豆・駿河の勢を以て固めたり。新田勢は、戦打ち負けて、宗氏、此所に討死す。さて義貞は、二万余人を率ひて、片瀬・腰越を打廻り、極楽寺阪へと攻め来れり。然るに、北は切通にて、山高く路嶮しきに、城戸を構へ垣柵を掻きて、数万の兵、並居たり。〇建武元年、本間・渋谷が一族が、前代方とて謀反を起し、相模国より此坂に攻め来る。足利直義、渋川刑部大輔義季を大将として馳せ向ひ、戦数刻にして凶徒打負けぬ。
   〇陣鐘山
村南に在り。土俗伝へて、元弘の役に、義貞、陣鐘を此山上にかけしと云ふ。
   〇稲村崎{*6}
海岸に突出して、其形、稲を積たる如し。故に名づくと云ふ。東面を霊山崎と唱へ、西南を稲村崎と呼ぶ。

apic058

 元弘三年五月、新田義貞、極楽寺の口、戦利あらざる為に、当所に向ひたるに、沙頭狭きに浪打際まで逆茂木稠(しげ)く引懸けて、沖四五町が程に大船を並べて、横矢射させんと構へたり。義貞、之を見て馬より下り、海上を伏し拝み竜神に祈誓して曰く、「日本国の主・我君、逆臣の為に西海の浪に漂ひ給ふ。義貞、今、臣たるの道を尽さん為に、斧鉞を執りて敵陣に臨む。其志、偏に皇化を佐け奉りて、蒼生を安からしめむとなり。仰ぎ願はくは、竜王、臣が忠誠を監みて、潮を万里の外に退け、三軍の道を開かしめ給へ。」と、躬(みづか)ら佩き給へる{**2}所の金作の太刀を脱きて、海中へ投げ入れたり。然るに、其夜の月の入方に、前々更に乾けることなき稲村崎、俄に廿余町乾上りて、数千の兵船も、落行く潮に誘はれて遥の沖に漂へり。義貞之を見て、江田以下の諸将を指揮して、稲村崎の干潟を懸通りて由比の浜に上り、極楽寺口の後背に出でにけり。
 義貞鎌倉攻めの順路、左の如し。
義貞、入間川の戦後、南多摩郡関戸以南、小野路村を経て、境川に沿ひて藤沢駅の近傍に集り(鶴間村に古壘趾あり)、火を村岡・片瀬・腰越・鵠沼・大船等の五十余村に放ち、三道より鎌倉を攻めにけり。

二行割書注
 1:長(たけ)、二丈六尺。(〇観音堂)
 2:楠なりとぞ。(〇観音堂)
 3:養老五年三月の頃。(〇観音堂)
 4:後三年の役。(〇御霊社)
 5:明鏡山星井寺と号す。此井より虎空蔵の形出現すと{**3}。(〇星井)
 6:此の海浜を袖ヶ浦と云ふ。地形、袖の形に似たる故なり。(〇稲村崎)

校訂者注
 1:『新編相模国風土記稿』「鎌倉郡巻之二十八 星ノ井」「同 坂之下村」に鑑み訂正。
 2:『新編相模国風土記稿』「鎌倉郡巻之二十九 稲村崎」に従い訂正。
 3:『新編相模国風土記稿』「鎌倉郡巻之二十八 虎空蔵堂」に従い訂正。

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