〇成就院
普明山法立寺と号す。古義真言宗。北條泰時、開基なり。元弘の役、当寺、乱兵に蹂践せられ、西谷に遁れしが、元禄年中、又此地に再興せり。故に、当時の祐尊を中興とす。
〇極楽寺
霊鷲山咸応院と号す。真言律宗。北條陸奥守重時の草創なり。
〇重時墓
寺後の山にあり。重時は義時の三男なり。弘長元年十一月三日、当寺の別業に在りて卒す。法名を観覚極楽寺と称す。上杉道合の墳墓も当寺に在りしとぞ。今は其所在を失ふ。
此墓の東南に腰掛松と云ふあり。昔、義経、腰越に抑留せられ鎌倉に入られざるを、弁慶、忿怒して、此松に腰をかけ鎌倉の方をにらみし故に、此名あり。
塔頭[古昔は四十九院あり。今は吉祥院のみ遺れり。]
〇日蓮袈裟掛松
往還の北方にあり。日蓮、竜の口に引かるゝ時、袈裟を此松に掛たりとぞ。
〇阿仏尼第蹟
極楽寺の西谷・月影谷にあり。阿仏は為相の母なり。母子共に鎌倉に死せしと。扇ヶ谷為相の墓と参照すべし。
〇十一人塚
海浜に出る道の左にあり。石の小碑あり。里民伝へて、新田の勇士十一人、討死せしを、当所に埋め、十一面観音堂を建てたる蹟なりと云ふ。(現今は、大舘又次郎主従十一人墓と記しあり。)
〇七里浜[津村内]
稲村崎より以西、津村に至るまでの海浜を云ふ。其道程{**1}、関東道{*1}にて七里あり。因りて名とす。
宝徳二年、両上杉の家長、太田資清・長尾景仲、鎌府を襲ふ。管領成氏、江島に奔る。資清・景仲、之を追ひ、此所にて千葉胤直・小山持家と戦ひ、持家、創を蒙り、従卒八十余人戦死すと。即ち此浜なり(此浜に鉄砂あり。其色、黒漆の如し。極めて細密にして、日に映ずれば、光輝あり。銀の如し。厨刀{**2}・刀子などを磨くに佳なり。砂中より折刀・白骨などを得る事あり)。
〇行合川
文永八年九月十二日、日蓮厄難の時、竜口よりの使と鎌倉の赦免使と行合ひし旧跡なりとて、此名あり。
〇金洗沢
行合川の西に在り。土俗伝へて、昔、黄金を鑿得たり。故に名づくと云へり。
文治元年五月、義経、平内府父子を具して下向の時、頼朝、此に関門を設けて鎌倉に入れず。梶原景時に命じて宗盛父子を請取らしむ。〇嘉禄二年五月、賊首・忍寂坊(若宮禅師公暁と称し、兵を白川に挙るを謀る。博徒なり。)の首を此に梟す。
〇腰越村
古昔は、鎌倉・大磯、中間の郵駅なり。又当所は、鎌倉幕府の刑場にて、其事、歴々、史に見へたり。
治承四年八月、石橋山の役、和田義盛、当所より酒勾駅に著陣す。〇文治元年、義経、平内府を具して当所に至り、抑留せられたり。〇文治五年、義経の首級を此に実検せしむ。〇建武二年八月、中前代の乱に、時行、鎌倉へ敗走の時、当所にて足利尊氏の兵と合戦し、葦名判官討死す。〇延元元年十二月、顕家、尊氏の兵士と戦ひ、利を得たり。〇応永廿二年十月、持氏、鎌倉を落ちし時、当所の海浜を過(よ)ぎれり。
〇満福寺
竜護山医王院と号す。古義真言宗。開山は行基、中興は高範{*2}、本尊は薬師なり。
文治元年五月、義経、頼朝の不審を蒙りて鎌倉に入れられず、当寺に滞留す。此時、大江広元に就きて呈せし欵状の草案なりとて、今に蔵せり。世の所謂腰越状とて、弁慶の書する所と伝ふれども、覚束なし。
△硯池
本堂の前にあり。弁慶、欵状を書する時、此池水を汲みて硯に滴す。故に此名あり。
二行割書注
1:六町を一里{**3}とす。(〇七里浜)
2:承安三年三月十六日、寂す。(〇満福寺)
校訂者注
1:『新編相模国風土記稿』「鎌倉郡巻之三十七 津村 七里浜」に従い訂正。
2:『新編相模国風土記稿』「鎌倉郡巻之三十七 津村 七里浜」割注に従い訂正。
3:『新編相模国風土記稿』「鎌倉郡巻之一 今所唱合庄三 七里浜」に従い訂正。
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