〇片瀬村
古昔、或は固瀬に作る。藤沢より江島への道なり。江嶋へ達する所は海中一町余、潮落の時砂碩となり、徒歩すべし。即ち、鎌倉より大磯に達する古道は海浜にあり{*1}。今は民戸増聚して、腰越村と接壌す。又往昔、村内、小名・竜の口にて犯罪の徒を刑せし事、古記に見ゆ。〇文永八年九月十二日、日蓮、刑に処せられんとして辛く助命ありしも、此地なり。建治元年九月、元の使者五人{*2}を当所にて刎頭す。永仁四年十一月、吉見孫太郎義世を刑す{*3}。暦応二年二月、普恩寺左馬助以下十三人の凶徒を刑す。文和二年五月、相模次郎時行・長崎妙阿四郎等{**1}三人、此地にて誅せらる。貞治元年九月、畠山阿波入道道誓追討の時、江戸修理亮を当所にて生捕り、斬に当つ。応永廿四年閏五月、禅秀の党与・岩松治部大輔満能入道を刑す。然れども、今は刑場の遺名をだに伝へざれば{**2}、其蹤跡詳かならず。
   〇片瀬川
境川の下流なり。当村の界を流るゝを{**3}以て此名あり。又、郡界{*4}を延亘して海に入る。
 治承四年十月、平家の方人{**4}・大庭三郎景親を、此河辺に於て梟首す。〇北條時頼{**5}、豆洲三島に参詣の時、青砥藤綱忍びて扈従しけるが、牛、此河中に在りて尿するを見、旱歳の民、飢餒の愁あるを風論せしこと、『北條九代記{**6}』に見えたり。
   〇竜口明神社
津村・腰越両村の鎮守なり。神体は五頭の蛇形にて、白髭明神を前立とす。相伝ふ、欽明帝十三年、江島神女の霊感に因りて降伏せし深沢の毒竜を祀れると云ふ。此隣村に長者窪・初噉沢との地名あり。参照すべし。
   〇竜口寺
寂光山と号す。日蓮、刑に当りし旧跡たる{**7}を以て弘安の頃創立し、即ち日蓮を開山とす。堂内に敷皮石{*5}と称するあり。或は首の座石とも呼ぶ。是、日蓮、斬に当らんとして座を設けし石なりとぞ。堂頭に敷皮堂の三字を扁す{*6}。
   〇江の嶋
此嶋は、孰れの村にも隷せず孤立せり。其形状、数十丈の巌、海上に突兀し、常に巨浪、山址を洗へり。東は、近く七里浜、遠く房総の諸山を見渡し、南に伊豆大島、西に箱根の嶺岳を望み、遠く富嶽に対し、北に大山・丹沢山等連りて、実に佳景と謂ふべし。古昔、神仙境と称せしも宜(うべ)なり。嶋の起立は、開化帝の六年四月、一霄に海底より涌出せしと云ふ。又縁起には、曩昔、深沢、長湖なりし頃、悪竜すみて人を残害せしが、欽明帝の十三年四月十二日より二十三日に至るまで、大地震にて海上に忽ち孤嶋を涌出し{*7}。天女降居して遂に彼毒竜を降伏せしと云へり。而して人跡の始めて嶋中に入りしは、文武帝四年、役小角が至りしを以て魁とす。寿永元年、頼朝、始めて窟中に弁財天を勧請す。
 △弁天社
  金亀山与願寺。日本三弁天{*8}の一なり。本宮・上の宮・下の宮の三祠あり。
 △十二窟
  島の廻に散在す。天女守護十二神鎮座{**8}の地と云ふ。
 △江島建寺碑{*9}
  里俗、屏風石と呼べり。往昔、良真、宋朝に至り慶仁禅師に謁し、此碑石を伝へ、帰朝の時将来せし物なりと云ふ。{*10}
 暦応元年九月、義良親王・北畠顕信の衆船、難風に遭ひし時、関八郎左衛門尉の船、此嶋に漂著し、敵の為めに殺さる。〇宝徳二年四月、太田資清・長尾景仲の成氏を襲ふや、成氏、夜中此嶋に逃る。蓋し、敵若し来り迫らば、是より安房・上総に航し、重ねて人数を催し合戦せんとの謀なり。

二行割書注
 1:高座郡鵂沼村に達す。(〇片瀬村)
 2:杜世忠{**9}・何文著・撒都魯丁等。(〇片瀬村)
 3:義世、義春の子、範頼の玄孫。(〇片瀬村)
 4:鎌倉・高座両郡。(〇片瀬川)
 5:長二尺三寸五分、幅一尺八寸。(〇竜口寺)
 6:宝鏡寺宮墨蹟と云ふ。(〇竜口寺)
 7:伊豆の神津、大隅の桜嶋の類皆、涌出なり。(〇江の嶋)
 8:厳嶋・竹生嶋・江嶋。(〇江の嶋 △弁天社)
 9:篆額に「大日本国江嶋霊迹建寺之記」とあり。(〇江の嶋 △江島建寺碑)
 10:縁起に拠るに、良真、入唐して慶仁に謁せしは、元久元年なり。(〇江の嶋 △江島建寺碑)

校訂者注
 1・2:『新編相模国風土記稿』「鎌倉郡巻之三十七 片瀬村」に従い訂正。
 3~6:『新編相模国風土記稿』「鎌倉郡巻之三十七 片瀬川」に従い訂正。
 7:『新編相模国風土記稿』「鎌倉郡巻之三十七 竜口寺」に従い訂正。
 8:『新編相模国風土記稿』「鎌倉郡巻之三十八 江島 十二窟」に従い訂正。
 9:『元史』「巻二百八列伝第九十五 日本」(元世祖之至元)十二年二月の條に従い訂正(維基文庫(最后編輯于2022年11月2日 (星期三) 01:27)による)。

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